君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 「リリーちゃん、おはよう!」

 リリーは驚いて顔を上げた。幼馴染のケルビンだ。市場の東側で雑貨を扱う商家の息子。誰とでも打ち解け、誰にでも親切を示すその人懐っこさは、この荒削りな市場でも珍しい。

 「おはよう、ケルビン」

 ケルビンはリリーの露店の前にしゃがみ込み、覗き込むように顔を近づけた。

 「……どうしたの? 顔、ぱっとしないよ」

 「ううん、何でもない。ちょっと寝不足なだけ」

 ケルビンの視線が、頬に触れるような感覚を呼ぶ。

 「寝不足? リリーちゃんが? いつも早起きして元気なのに」

 ケルビンは笑いながら言った。市場の喧騒に溶け込むような、明るく暖かな色。リリーは小さく頷いた。ケルビンはそれ以上追及せず、代わりに自分の露店の方から布の包みを取ってきた。

 「はい、これ。うちの店で出た新的なパン。焼きたてだから、まだ温かいよ」

 差し出された包みから、穀物の香ばしい匂いが漂う。

 「……ありがとう」

 リリーは受け取った。ケルビンは満足そうに笑みを深めると、リリーの隣の木箱に腰を下ろした。肩が触れそうな距離。

 「今日はさ、午後から仕入れの手伝いがあるんだけど、リリーちゃんも一緒に行かない? 一緒の方が効率いいし」

 「ごめん。今日は……午後、少しやることがあって」

 「へえ、何かあるの?」

 ケルビンが眉を上げた。

 「……うん。ちょっと」

 リリーは曖昧に答えた。やることなどない。ただ――昨夜の余韻が消えないうちに、一人でいたかった。

 「……そっか」
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