君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 規則正しくなった寝息が、物置小屋の静寂に溶けていく。リリーはほっと息を吐き、膝をついたまま少年の顔を覗き込んだ。

 昏々と眠る彼は、傷だらけで泥にまみれているにもかかわらず、息を呑むほど美しかった。

 (……この人は、何者なんだろう)

 触れた肌は冷え切っていたが、その下に秘めた生命力は凄まじく、危ういほどに張り詰めていた。リリーは無意識に手を伸ばし、彼の頬に触れそうになって……止めた。それもこれほど異質で美しい存在に触れることに、リリーは戸惑いを覚えた。

 この人がどれほど厳しい場所にいようと、どれほど深い闇を抱えていようと、今はただ怪我をした一人の人でしかない。命の火が消えかかっているなら、吹き込みたくなるのは自然なことだ。

 彼の冷たい手に触れた時の感触や、あの鋭い視線に射抜かれた瞬間の戦慄がまだ身体に残っている。自分を射抜くあの深い青は、氷のように冷たく、それでいてその奥に何か微かな光を宿していた。まるで割れた硝子のように美しく、触れれば砕けてしまいそうな危うさ。

 これ以上関われば、何か取り返しのつかないことに巻き込まれる予感がした。リリーは震える指先を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。

 「……おやすみなさい」

 聞こえるかどうかも分からない囁きを残し、リリーは物置小屋の扉をそっと開けた。外はまだ雨が降り続いていた。リリーは襟元を合わせると、振り返ることなく闇夜の路地裏へと駆け出した。

 雨は夜通し降り続いていた。リリーは路地裏を抜け、薄暗い街路へ出た。
< 4 / 44 >

この作品をシェア

pagetop