君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
アッシュワ工業連邦――南の黒い工場。北のグレンフォード王領のような華やかな宮殿も、優雅な舞踏会もない。アッシュワ工業連邦の夜は、いつも煤と鉄の匂いがする。
低く連なる煉瓦造りの家々は煤け、窓から漏れる光はどれも貧しく橙色の街灯だけが頼りだった。市場の露店は板を被せられ、雨の中でじっと明日の朝を待っている。昼間なら野菜を売るための台が並ぶ広場も、今は誰もいない水溜まりに過ぎない。
父のトーマスは工場で蒸気機関の修繕をしている。母が家を出て以来、父は笑わなくなった。ただ黙々と働き、疲れきった身体で帰ってくる。弟のトムはまだ十歳で、市場の隅で新聞を売って少しでも家計を助けている。
リリー自身も、朝から市場で野菜を売っていた。今日は雨のせいで客足も乏しく、売り上げはいつもの半分にも満たない。それでも帰り道に古着屋の前を通り、棚に並ぶ安い布地を一瞬だけ見つめた。
(明日、また来よう)
そう思いながら、リリーは自分の家のドアをそっと開けた。中からは弟の寝息と、奥の部屋から父のいびきが聞こえてくる。リリーは濡れた靴を脱ぎ、音を立てないように自分の薄い寝台に滑り込んだ。
父に話せば、きっと怒られるだろう。
『死なせないからね』
あの時口から出た言葉は、思考よりも先に溢れ出ていた。あの瞬間、彼が消えてしまいそうに見えたから。雨に溶けて、闇に溶けて、この世界から跡形もなくなってしまいそうに見えたから。
リリーは毛布を握りしめ、目を閉じた。自分の分のご飯を少し分ければ、父や弟には気づかれないはずだ。リリーはそう考えながら、いつの間にかまどろみの中へと沈んでいった。
低く連なる煉瓦造りの家々は煤け、窓から漏れる光はどれも貧しく橙色の街灯だけが頼りだった。市場の露店は板を被せられ、雨の中でじっと明日の朝を待っている。昼間なら野菜を売るための台が並ぶ広場も、今は誰もいない水溜まりに過ぎない。
父のトーマスは工場で蒸気機関の修繕をしている。母が家を出て以来、父は笑わなくなった。ただ黙々と働き、疲れきった身体で帰ってくる。弟のトムはまだ十歳で、市場の隅で新聞を売って少しでも家計を助けている。
リリー自身も、朝から市場で野菜を売っていた。今日は雨のせいで客足も乏しく、売り上げはいつもの半分にも満たない。それでも帰り道に古着屋の前を通り、棚に並ぶ安い布地を一瞬だけ見つめた。
(明日、また来よう)
そう思いながら、リリーは自分の家のドアをそっと開けた。中からは弟の寝息と、奥の部屋から父のいびきが聞こえてくる。リリーは濡れた靴を脱ぎ、音を立てないように自分の薄い寝台に滑り込んだ。
父に話せば、きっと怒られるだろう。
『死なせないからね』
あの時口から出た言葉は、思考よりも先に溢れ出ていた。あの瞬間、彼が消えてしまいそうに見えたから。雨に溶けて、闇に溶けて、この世界から跡形もなくなってしまいそうに見えたから。
リリーは毛布を握りしめ、目を閉じた。自分の分のご飯を少し分ければ、父や弟には気づかれないはずだ。リリーはそう考えながら、いつの間にかまどろみの中へと沈んでいった。