君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜

8 青い石と、小さな鍵ーー交わさなかった約束


 ノアは雑貨屋を後にし、人混みを避けて、市場の西側の路地へと歩を進めていた。市場の広場が路地の切れ、間から覗いた。露店が並ぶ一角。野菜を積んだ木箱。その中に――リリーの背中があった。足が、勝手に前に出ようとした。その時――

 リリーの隣に、若い男がいた。肩が触れ合うか触れ合わないかの距離。男がリリーの手の上に自分の手を重ねた。

 目の前の光景が、ノアの網膜に焼き付いていく。懐の中の銀の髪飾りが、急に重くなった気がした。男が立ち上がり、市場の出口へと歩いていく。リリーは去っていく背中を見つめていた。

 ノアは拳を握りしめた。鋭い痛みが走ったが、それは胸の痛みに比べれば何でもなかった。

 「殿下」

 背後からハルバートの低い声が届いた。

 「……もうお時間です」

 市場に長く留まれば留まるほど危険が増す。

 「殿下」

 ハルバートが再度呼んだ。ノアはゆっくりと瞬きをした。これが彼女の世界だ。自分のいない世界。

 ノアは踵を返した。ハルバートが無言で背後に続く。市場の喧騒が少しずつ遠のいていく。

 路地の先に要塞の塔が見える。帰らなければならない場所。

 一歩踏み出すたびに、リリーから遠ざかっていく。あの時もこうして背を向けて歩いた。星空の下で名前を告げて、抱きしめて――そして去った。

 (……繰り返すのか)

 会って、触れて、離れる。帰らなければならない。人質の王子には、選ぶ権利などない。
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