君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 「……怖いか」

 リリーは、首をゆっくりと横に振った。拒絶ではない。けれど、隠したかった。この顔を。この熱を。この、抑えきれない動悸を。
 ノアは、ゆっくりと一歩退いた。離れていく気配。背中から遠ざかる体温。また――失う。

 リリーは振り返ると、ノアが目の前に立っていた。その瞳は、退いた身体とは裏腹に、まだリリーを捕らえて離さなかった。

 ノアの唇が、微かに開いた。何かを言おうとして――止めた。言葉が、出てこない。謝罪の言葉も、想いの告白も、別れの予告も。

 二人は、ただ見つめ合う。ノアの親指が、リリーの唇の端を掠めた。ほんの数ミリの接触。それだけで、リリーの全身が跳ねた。

 リリーの手がノアの胸に置いた。

 ノアの顔が、ゆっくりと近づいてくる。唇が、触れるか触れないかの距離で、止まった。息が、触れ合う。熱い。互いの体温が、狭い空間に満ちていく。

 「……リリー」



 名前を呼ぶ声は、願いのようだった。切実で、苦しくて、それでいて甘い。

 「俺は……君を壊したくない」

 だから、触れられない。

 「……知っている」

 母の言葉が、頭の中で反響する。

 「知っているよ……でも」

 リリーは、ノアの胸から手を離した。指先が、革の上衣を滑り落ちる。その一瞬の接触が、永遠のように長く感じられた。

 距離が、開いた。
< 43 / 84 >

この作品をシェア

pagetop