君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
第三章 帰還

9 幼馴染の急接近――奪われた初恋


 要塞の塔に戻ったノアは、冷たい石壁に背を預けそのまま、ずるずると崩れ落ちた。ただ遠くで聞こえる潮騒の音だけが、凍りついた空気を震わせている。

 ノアは自分の手を見つめた。指先には、まだ彼女の感触が焼き付いて、離れなかった。栗色の髪の束をすくい上げた時の滑らかな手触り。脈打つ血管に触れた時の生々しい鼓動。そしてーーキス寸前で止まった時、互いの息遣い。

 あと数ミリ。唇を寄せてしまえば、すべてが壊れると分かっていたから、こそ止めたのだ。だが、止めたことによって、浮き彫りになったのは、自分の無力さだけだった。己の理性がギリギリのところで、軋みながらも機能したことに、ノアは呆れていた。

 正しいことをしたはずなのに、この喪失感は何だ。

 『帰ってきて、とは言えないの』
 『あなたを待っている、とも……言えない』

 あんな悲しいことを、彼女に言わせたのは、自分だ。身分違いという残酷な現実を突きつけたのは、他ならぬ自分だ。彼女を傷つけ、悲しませているのは、他ならぬ自分自身だ。

 ノアは拳で石壁を叩きつけた。鈍い痛みが手首から腕へと走る。だがその痛みさえも、彼女の言葉による苦痛に比べれば、何でもなかった。

 未来を約束する言葉すら与えられなかった。想いを伝えれば伝えるほど、彼女を縛り付け、苦しめることしかできない。

 心臓に一番近い場所にある小さな鍵。開かれることのない扉の鍵。それでも、この鍵がある限り、彼女の温もりはこの手の中にいる。

 「……リリー」

 空気に溶けて消えてしまうような、か細い響き。
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