君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ケルビンは目を閉じなかった。灰色の瞳が開かれたまま、リリーの顔を見つめていた。

 リリーも目を閉じなかった。緑色の瞳が、虚空を見つめていた。ただ――涙が、こぼれた。

 一粒、二粒。大粒の涙が、頬を伝って落ちた。ケルビンの唇が離れた。

 「……リリーちゃん」

 ケルビンの声が震えた。

 リリーの涙が止まらなかった。声を出して泣くのではない。嗚咽すらない。ただ、静かに、ひたすらに涙が溢れ続ける。

 「……泣かないで」

 ケルビンの声は、かすれていた。

 親指が、リリーの頬に触れた。涙の跡を、ゆっくりと拭う。その手は優しかった。幼い頃から変わらない、ケルビンの優しさだった。

 けれどその優しさは、リリーの心には届かなかった。頬を伝う涙を拭いても拭いても、新しい涙が後から後から溢れてくる。

 ケルビンの表情が、歪んだ。苦痛に耐えるような、やるせない顔。自分が彼女を泣かせているという事実が、彼自身をも傷つけていることが分かった。

 「……ごめん」

 謝りながらも、彼の手はリリーから離れなかった。指先が、微かに震えた。

 「……好きだよ」

 リリーの華奢な体が、ケルビンの広い胸に包み込まれる。

 「……ずっと、好きだった」

 耳元で囁かれた声は、震えていた。

 リリーは涙が止まらなかった。この温もりは、あの夜の温もりではない。あの深い青の瞳に見つめられた時の熱ではない。あの掠れた声で名前を呼ばれた時の心臓を鷲掴みにされるあの感覚ではない。

 髪飾りの青い石が、微かに光っていた。

 ――ノア。

 心の中で名前を呼ぶ。

< 48 / 84 >

この作品をシェア

pagetop