君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
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 帰国の馬車の車輪が石畳を叩く単調な音だけが、冷たい車内に響いていた。大陸を南北に分かつ巨大な運河の石橋を渡り切った。ノアは窓枠に肘を預け、深い青の瞳をガラスの向こうへと向けていた。

 対面に座るハルバートは、静かに主君の横顔を見つめていた。人質という屈辱から解放され、祖国へ帰還する王子。本来なら祝福されるべき栄光の道程だが、ノアの瞳にあるのは絶望的なまでの徒労だけだった。ハルバートはただ沈黙を守っていた。

 ノアはゆっくりと懐に手を伸ばした。指先が触れたのは、錆びた真鍮の鍵。胸元に押し当てると、リリーの体温がまだ微かに残っているような錯覚に陥る。馬車が揺れるたびに、ノアの冷徹な仮面の下で押し殺した嗚咽が微かに漏れる。

 南の湿った鉄臭い空気は消え、北の乾いて冷たく澄んだ風が馬車の隙間から滑り込んでくる。グレンフォード王国の空気だった。五年ぶりに吸い込むその気は、懐かしさよりも異物感をのどの奥に残した。

 王都が近づくにつれ、街道沿いに人影が増えた。五年間人質として敵地に囚われ、ようやく戻ってきた王子に対する同情と好奇と、政治的な期待が入り混じった、群衆の眼差し。

 馬車が王宮の正門をくぐった時、出迎えの列が整っていた。先頭に立つのは叔父のルナール王だった。父王の弟。ノアにとって剣を教え、政務を学んだ親しみのある存在。
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