君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ノアは踵を返し、館の扉へと歩き出した。マロンが慌てて後を追う。

 「お部屋の準備は整えております。湯も沸かしてございます。お食事も――」

 「不要だ」

 ノアは足を止めずに答えた。

 「湯だけ。あとは下がれ」

 マロンは一瞬ためらい、それから深く頭を下げた。主君の背中が、館の薄暗い廊下へと消えていく。その後ろ姿は、五年前にこの館を去った時よりもずっと広く、そしてずっと脆く見えた。

 「……お帰りなさいませ、若様」

 ◇

 この館で過ごしたのは十三歳まで。館の中は、記憶のままだった。磨き上げられた黒檀の床。天井から下がる古い燭台。

 ノアは案内も待たず、一人で階段を上がった。自分の部屋へ続く廊下を、迷うことなく歩く。部屋の扉を開ける。天蓋つきの寝台。磨き上げられた家具。人質の部屋とは雲泥の差。だがノアには、あの埃っぽい物置小屋のほうが温かかったと思えるほど、この空間は冷たかった。

 ノアは寝台に腰を下ろした。懐から、小さな鍵を取り出した。錆びた真鍮。

 指先で何度も撫でる。彼女の指が触れた場所。震える手で握らせた、あの一瞬の温もり。

 窓の外では、王都の夕暮れが静かに訪れていた。南の街とはまるで違う色。煤も鉄もない、澄んだ夕焼け。

 最後の朝、袖口を掴んだ細い指先の震えが蘇る。世界でただひとつ、自分を人間として繋ぎ止めていた温もりを、手放したくなかった。守るために離した。

 明日、王太子の冠が載せられる。その瞬間から、ノア・レイ・グレンフォードは完全に鎖に繋がれる。リリーが物置小屋で救った「旅人」と呼ばれたあの少年は、永遠に消える。

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