君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 「北の白い宮殿」と呼ばれる、グレンフォード王領。

 王太子の日常は、完璧に組み立てられた檻だった。

 朝は夜明けと共に始まる。剣の稽古、政務の勉強、議事堂での会議、外交文書の検分。一日の仕切りは精密で、息をする隙すら与えられない。ノアはそのすべてを無表情にこなした。文句も不満も洩らさない。ただ機械的にこなす。



 誰も近づけない。帰還から二年が経った。整いすぎた顔立ちに冷徹な瞳が宿り、王宮の人々は彼を「冷徹な王太子」と呼んだ。ノアの胸の奥にはただ一つ、錆びた真鍮の鍵がしまわれていることだけを知っているのは、ハルバートだけだった。

 社交季の夜、王宮の大広間は煌々たる燭光に包まれていた。談笑する声、杯が触れ合う音、演奏家の弦楽器の調べ。ノアは広間の奥、少し高くなった席に座っていた。蜂が花に群がるように、彼女たちは次々とノアの前に現れては挨拶を述べ、瞳で訴えかける。

 「殿下、本日は誠に光栄に存じます」
 「殿下、先日の議事堂でのご発言、拝読いたしました」

 王太子の隣に立つ地位。将来の王妃という栄誉。それを求める眼差しだった。

 深い青の底に映るのは、整えられたドレスでも、白い手袋でも、宝石を嵌めた髪型でもない。

 (……あの栗色の髪は、もっと柔らかかった)

 ノアは拳を握りしめた。

 (考えるな)

 ここには、彼女がいない。

 「殿下」

 背後からハルバートの低い声が届いた。

 「公爵家のアリーナ令嬢が、殿下にご挨拶申し出ております」

 「……通せ」

 短く答えた。社交は王太子の責務。広間の一角から、一人の女性が歩み寄ってきた。
< 59 / 105 >

この作品をシェア

pagetop