君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 着替えを終えたノアは、ダイニングルームへと足を運んだ。広間の扉を開けると、すでにリリーが席に着いていた。ノアは静かに向かいの席に着いた。

 「……緊張しなくていい」

 低い声でそう告げると、リリーは微かに顔を上げた。

 「……はい」

 二人は向かい合い、ただ互いの存在を意識していた。二年間、夢にまで見た光景。それが今、現実になっている。まるで幻のように。

 リリーは、向かいの彼の視線に晒され、心臓が早鐘を打っていた。かつて物置小屋の薄暗い灯りの中で見たあの眼差しと、今の眼差しは何も変わっていない。物置小屋の「旅人」ではない、王太子としての彼が、自分を見つめている。

 「……口に合うか」

 「……はい。とても、美味しいです……殿下」

 その呼び方に、ノアの指が止まった。物置小屋では「旅人さん」だった。星空の下では「ノア」と呼ばれた。なのに今、彼女は「殿下」と言った。身分という壁が、いつの間にか二人の間に立ち上がっていた。

 「……その呼び方はやめてくれ」

 「でも……」

 以前なら、迷うことなく彼の名を呼べた。

 「ここでは、ノアと呼んでほしい」

 深い青の瞳は、あの夜と変わらなかった。
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