君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
◇
使用人に案内されたリリーは、広い客室の中央で立ち尽くしていた。市場の木箱に座り、埃まみれの籠を背負って生きてきた少女には、あまりにも遠い世界だった。
手を洗い、髪を整え、与えられた柔らかなドレスに袖を通す。鏡に映る自分が、まるで別人のようでリリーはそっと目を伏せた。髪飾りの青い石だけが、変わらず光っている。
夕闇が深まった頃、扉が控えめに叩かれた。
「リリー様。殿下がお呼びです」
案内されたのは、館の最も奥まった場所にある一室だった。重い扉が開く。そこは広間や客室とは違い、燭台の灯りがひとつだけ揺れる静かな私室だった。
ノアは窓辺に立っていた。上着を脱ぎ白いシャツだけの姿。
「……来てくれたか」
リリーは部屋の中央で足を止めた。近づけば、また何かが壊れてしまいそうで。
「座ってくれ。話しておきたいことがある」
ノアは隣のソファを指し、自分もその隣に腰を下ろした。肩が触れそうなほど近い。
「俺は十三から十八まで、アッシュワで人質として過ごした」
ノアの声は低く静かだった。視線は、窓の外へと向けられている。
「自由などなかった。外出も、誰かと話すことも許されない。ただ生かされているだけの、飾り物だった」
リリーは息を呑んだ。彼の口から直接語られる言葉は想像よりもずっと重かった。
「あの雨の夜、俺は死んでもいいと思っていた。実際死にかけていた」
リリーの胸が、痛いほど締めつけられる。
「だが……君が現れた」
ノアの視線が、ゆっくりとリリーへと戻る。
「死なせないと、君は言った。身元も知らない男に手を差し伸べた。あの瞬間……俺は、初めて誰かに必要とされた気がした」
リリーの唇が、微かに震えた。
「物置小屋での日々は……俺にとって、初めて人間として扱われた時間だった。君は俺を『旅人』と呼び、名前も知らずに隣にいてくれた」
使用人に案内されたリリーは、広い客室の中央で立ち尽くしていた。市場の木箱に座り、埃まみれの籠を背負って生きてきた少女には、あまりにも遠い世界だった。
手を洗い、髪を整え、与えられた柔らかなドレスに袖を通す。鏡に映る自分が、まるで別人のようでリリーはそっと目を伏せた。髪飾りの青い石だけが、変わらず光っている。
夕闇が深まった頃、扉が控えめに叩かれた。
「リリー様。殿下がお呼びです」
案内されたのは、館の最も奥まった場所にある一室だった。重い扉が開く。そこは広間や客室とは違い、燭台の灯りがひとつだけ揺れる静かな私室だった。
ノアは窓辺に立っていた。上着を脱ぎ白いシャツだけの姿。
「……来てくれたか」
リリーは部屋の中央で足を止めた。近づけば、また何かが壊れてしまいそうで。
「座ってくれ。話しておきたいことがある」
ノアは隣のソファを指し、自分もその隣に腰を下ろした。肩が触れそうなほど近い。
「俺は十三から十八まで、アッシュワで人質として過ごした」
ノアの声は低く静かだった。視線は、窓の外へと向けられている。
「自由などなかった。外出も、誰かと話すことも許されない。ただ生かされているだけの、飾り物だった」
リリーは息を呑んだ。彼の口から直接語られる言葉は想像よりもずっと重かった。
「あの雨の夜、俺は死んでもいいと思っていた。実際死にかけていた」
リリーの胸が、痛いほど締めつけられる。
「だが……君が現れた」
ノアの視線が、ゆっくりとリリーへと戻る。
「死なせないと、君は言った。身元も知らない男に手を差し伸べた。あの瞬間……俺は、初めて誰かに必要とされた気がした」
リリーの唇が、微かに震えた。
「物置小屋での日々は……俺にとって、初めて人間として扱われた時間だった。君は俺を『旅人』と呼び、名前も知らずに隣にいてくれた」