君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ノアの声が、わずかに掠れる。

 「君は……俺に、生きていてもいいと思わせてくれた」

 リリーは、小さく首を振った。

 「私は……ただ、見捨てられなかっただけ。あなたが強くて……立派で……だから」

 言葉が、うまく続かない。

 「私は何もしていない。ただ……あなたが生きていてくれて、それだけで……」

 リリーは必死に言葉を紡ぐ。

 「あなたは、自由を奪われても……尊厳を失っても……それでも、まっすぐに生きてきた。それは……誰にも否定できないことです」

 その言葉が、ノアの胸の奥深くへと染み込んでいく。誰にも言われたことのない言葉だった。人質として、王族として求められるままに生きてきた彼に――ただ一人の少女が、「生きてきたこと」を肯定した。

 「リリー……」

 ノアは静かに身を起こすと、白いシャツの胸元へ指を差し入れた。布の下から取り出したのは、小さなくすんだ真鍮の鍵。

 「君がくれたこの鍵が、俺に肩書きのない自分を思い出させてくれた」

 彼は、彼女の手のひらごと鍵を包み込むように、指を重ねた。

 「俺の心は、君が持っている」

 その言葉は、告白であり、誓いであり、そして――国境も身分も越えようとする、決意だった。

 リリーの髪に、鈍い光を放つ青石の髪飾りにノアの視線が留まった。

 「何年も……この瞬間だけを想って、耐えてきた」

 リリーは、ノアの瞳を見つめ返した。何年もの間、彼は独りで耐えていた。膝の上で組んだ指先が、白くなるほど握りしめられている。

 「ノア……私も、話すことがあるの」

 ノアの瞳が微かに細められる。リリーは視線を落とした。

 「……私、幼馴染のケルビンから……結婚してほしいって言われていたの」

 空気が、凍りついた。

 「……父が、望んでいた。ケルビンの家が商家で……暮らしが安定するからって。トムのこともあるし……」
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