君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 政務を終えたノアが私邸へと戻る気配があった瞬間から、館の空気は一変する。帰宅したノアは、上着のボタンを緩めながら迷いなく客室へと向かった。薄暗い部屋の中で窓辺に座っていたリリーが振り返る。

 「ノア」

 名前を呼ばれるだけで、心臓が早鐘を打つ。ノアは無言で歩み寄りリリーの隣に腰を下ろした。

 「待っていたか」

 リリーは小さく頷いた。

 「今日何をしていた」

 「……庭を少し歩いたの。それから……本を読もうとしたんだけど……難しくて」

 ノアは彼女の手を握りしめた。

 「明日、本を持ってこさせる。もっと易しいものを」

 「ううん。ただここにいられれば、それで十分」

 「リリー……」

 ノアは彼女の手を握ったまま、静かに口を開いた。

 「君の家族のことなら……心配するな」

 父と弟の顔が脳裏をよぎる。

 「ハルバートを行かせた。君が無事だと、いずれ迎えに行くと伝えている。だから……何も案じることはない」

 ノアの指が、彼女の頬に触れた。

 「君は……ここにいていい」

 身分も、居場所のなさも、一瞬で遠のいていく。ノアの顔が近づいた。

 「ノア……」

 唇が、そっと重なった。ノアの片手が彼女の項に回され、逃げ場を塞ぐ。もう片方の手は腰に添えられ、引き寄せる。
 リリーの指先がノアの胸元のシャツをぎゅっと握った。ノアは腰に回した腕にさらに力を込めた。

 「……ここにいてくれ」

 掠れた声が、リリーの唇に落ちた。もう一度深く口づける。リリーは目を閉じ、彼の熱に身を委ねた。
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