君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 マロンは夜半にノアの書斎を訪れた。けれどマロンの目には、その背中がかつてないほど危うく見えた。

 「ノア様」

 ノアは振り返らなかった。

 「なんだ」

 「些か……申し上げにくうございますが」

 マロンは一歩踏み出し背中のままの主君に向けて言葉を継いだ。

 「先日の夜会の件、公爵家のアリーナ令嬢へのご対応について、宮中より問い合わせがあったそうです」

 公爵令嬢アリーナ・ヴァイスベルク。

 「王太子としての御立場……そろそろ正室を定めるべき時期ではないかと」

 ノアはゆっくりと振り返った。

 「マロン、お前も同じことを言うのか」

 マロンの背筋に冷たいものが走った。

 「老骨の身にて恐縮ではございますが」

 マロンは一度視線を落とし、それから顔を上げた。

 「ノア様があのお方を……リリー様を、どれほどお思いかは……拝見しております」

 ノアの表情が変わらなかった。

 「だからこそ申し上げねばなりません」

 マロンの声が低くなった。

 「あの方は……平民でございます」

 その一言が、静寂の中で重く響いた。

 「王太子の正室は国の象徴でございます。平民を迎えるという前例を作れば、王家の秩序が揺らぐ。そうなれば殿下を支える勢力そのものが割れ、結果として……お守りしたいはずの方を、最も危険な場所へ立たせることになりましょう」

 責務。身分。秩序。王族の掟。

 覚悟は、できている。

 「王太子としての責務は忘れていない」

 マロンの目が微かに潤んだ。主君の声の奥にあるものを感じ取ったからだ。

 「だが、彼女を手放すことだけはしない」

 深い青の瞳が、燭台の光を宿して暗く燃えている。

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