君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜

15 もう、離してやれない


 老執事の声は、廊下の石壁に吸い込まれるように低く響いていた。リリーは廊下の陰に立ち尽くしていた。足の指先まで凍りついたように動けなかった。

 マロンの言葉が、一つ一つ胸に突き刺さっていく。王家の秩序が揺らぐ。王太子を支える勢力が割れる。

 自分はノアの足枷だ。彼のそばにいるというだけで、その背中に更なる重荷が加わる。守るべき民の秩序を自らの手で乱すことになる。

 (私が……壊すの)

 母が言った。身分違いの恋は、どちらかが必ず壊れる。リリーは唇を噛みしめた。奥まで噛みすぎて、鉄の味が舌先に滲んだ。

 ◇

 夜更け、ノアは館へ戻った。馬車を降りる前から気づいた。いつもならリリーのいる部屋に灯りが点っている。窓から漏れる薄い橙色の光が、帰るたびに胸を温めてくれた。

 廊下を歩く足音が、冷たい石壁に反響する。客室の扉を開けた。燭台の灯りは消え、窓から差し込む月光だけが白い床を縁取っている。
 机の上が目に入った。小さな卓の上に、ひとつだけ置かれているもの。

 二年前リリーが震える手で握らせた、物置小屋の鍵。ノアが心臓に一番近い場所にしまい込んできた、彼女との唯一の繋がり。それが、机の上に置かれていた。

 ノアの呼吸が止まった。指先が震えた。

 「リリー……っ」

 ノアは鍵を握りしめた。廊下へ出て、階段を降りる。広い玄関ホールを抜け、門へ向かって走った。

 煉瓦塀に囲まれた重い鉄の扉。その向こうは王都の夜の通り。誰もいない。

 「……っ」

 膝が折れそうになった。手が門の鉄枠にかかる。冷たい鉄の感触が掌に伝わる。

 (また……)

 五年前の喪失感と、二年前の絶望と、そして今――氷の壁が内側から砕け散っていくような感覚。

 (失うのか)

 ノアは鉄枠を握りしめたまま動かなかった。王族としても、人質としても、一度も見せたことのない顔だった。
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