君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
16 黄昏の誓約と、身分を整える道
数日後の午後、ノアはいつもより早く邸宅へ戻ってきた。
庭へ足を踏み入れたとき、最初に目に入ったのは、小さな影だった。リリーが芝生の上にしゃがみ込んでいる。その周囲を、数羽の小鳥が跳ねていた。一羽が彼女の手元まで近づくと、リリーは嬉しそうに微笑み、掌に乗せた小さなパン屑を差し出す。
「ふふ……食べてくれた」
弾むような声。政務の最中には忘れていた疲労が、ようやく身体の表面へ浮かび上がってくる。けれど、それ以上に強く感じたのは――帰ってきた、という実感だった。
小鳥が羽ばたいていく。リリーはその姿を見送ってから、ふと顔を上げた。
「……ノア、お帰りなさい」
「ただいま」
リリーが立ち上がる。
「今日は早かったね」
そう言って微笑んだ彼女へ、ノアはリリーの手を取った。
「少し、付き合ってほしい」
大きな掌が、小さな手を包み込む。導かれるまま庭を抜け、二人が向かった先には、一頭の黒毛の馬が繋がれていた。ノアはリリーの手を取り、馬の前に立たせた。
「……乗るぞ」
◇
背中から彼の胸板が押し付けられる感触。馬が歩き出す。ノアは片手で手綱を握り、もう片方の手でリリーの腰を支えていた。
馬が王都の門を出て、北へと続く丘道を登っていった。目の前に広がるのは、見渡す限りの緑と、遠くに霞む白い壁の街並み。南の灰色とは、まるで違う世界だった。
「……綺麗」
思わず声が漏れた。丘の頂上に着いた時、夕陽が沈みかけていた。空は茜と紫と橙が混ざり合い、雲の縁を黄金に染め上げている。
馬から降りると、ノアはリリーの手を引いた。草の上を歩き丘の縁へ立つ。