君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 ◇

 「伯爵家の養女……」

 リリーは俯いたまま動かなかった。ノアの告げた言葉――ハルバート・クロイド伯爵家の養女という提案が、彼女の中で反響していた。

 ようやく、顔を上げた。

 「……私が貴族になれば、ノアは……少しは楽になるの?」

 その問いかけは静かだった。けれどその一音にどれほどの覚悟が込められているか、ノアには分かった。

 「違う」

 リリーの頬に触れる。

 「君の身分が低いことが問題なんじゃない」

 言葉はゆっくりと紡がれた。

 「君が俺の隣にいることで、君が傷つけられることが問題なんだ」

 リリーの瞳が見開かれた。

 「俺は……君を守りたい」

 青い瞳の中で光が揺れる。理解と安堵と、そして言いようのない愛おしさが、入り混じた光。

 「王太子としてでも、人間としてでもない……ただ一人の男として」

 リリーの手がノアの手に重なった。細い指が彼の掌に触れる。

 「ノア……ありがとう。私のこと、そんなに大切に想ってくれて」

 小さく頷いた。

 「……分かった。私、そうする」

 ノアはリリーの手を握りしめた。

 「でも……私があなたを助けたことが広まれば」

 リリーの声は微かに震えていた。

 「また誰かが狙うかもしれない……また誰かが傷つくかもしれない」

 その言葉に、ノアの胸が締めつけられた。彼女はいつもそうだ。自分のことよりも他人のことを案じる。たとえその他人が、自分を傷つける存在であっても。

 「私は……どうすればいいの?」

 問いかけは切実だった。

 ノアはリリーの手を胸元へと引き寄せる。

 「何もしなくていい」

 その響きには揺るぎない意志が宿っていた。

 「俺が……君の隣に立てる男になる」

 ただ、ここにいればいい。それが、彼女の望むすべてだった。

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