君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
第五章 結婚
17 籠のない未来、君と生きる未来
アッシュワの路地裏にある粗末な家の前に、黒塗りの馬車が停まった。煤煙と鉄錆の匂いが染み付いた石畳には、不似合いなほど静謐な気配を纏い、ハルバート・クロイドは降り立った。
ハルバートは一度深く息を整え、ノックをした。
「……はい」
扉が開き、リリーの父が顔を出した。ハルバートを見た瞬間、男の目が見開かれる。
「お久しぶりです」
礼儀正しいが、威圧感はない。
「お話がございます。中へお入りしてもよろしいでしょうか」
父は数秒逡巡し、やがて小さく頷いた。狭い家の中。粗末な木のテーブルと椅子。ハルバートは、テーブルの向かいに座った父と向かい合った。
「突然お伺いして申し訳ありません。……実は私、主人より命を受け参りました」
「主人……?」
「ノア・レイ・グレンフォード殿下です」
その名が出た瞬間、家の中の空気が凍りついた。父の手がテーブルの上で強く握りしめられる。
「殿下より、リリー様が殿下の生命を救われた恩人であり、そして殿下が彼女を妃として迎えたいという御意志を、お伝えするようにと申しつかっております」
長い沈黙の後父がゆっくりと顔を上げた。
「……妃として?」
「左様でございます」
「リリーは……ただの町娘だぞ」
「分かっております。ですが殿下の御意志は変わりません。殿下はリリー様をお迎えするために、どのような障害も乗り越えるお覚悟でございます」
ハルバートの声は静かだったが、確固たる信念が込められていた。
「そのために私が参りました。リリー様を私の養女として迎えたいのです」
「養女……?」