君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
 「私は十三歳でアッシュワへ送られました。あの地で、私が人間として生きる意味を失いかけていた時、彼女が現れたのです」

 ノアは一瞬だけ、リリーに視線を向けた。

 「身元も知らない傷ついた私を、献身的に看病してくれました。あの物置小屋での日々がなければ、私はここにいません」

 リリーの睫毛が、震えた。涙を堪えているのが、ノアには分かった。

 「陛下。私は王太子としての責務を、必ず果たします。ですが、彼女を手放すことだけは……できません」

 ノアは、深く頭を下げた。

 「どうか、お許しください」

 王は、長い間ノアを見つめていた。やがて、口を開いた。

 「顔を上げよ」

 ノアは、ゆっくりと顔を上げた。王は、微かに口元を緩めていた。

 「ノア。君は、変わったな」

 「人質から戻った当初の君は、死人同然だった。儀式の場でも、剣を握らせても目が空っぽだった。わしは……君が壊れてしまったのではないかと、案じていた」

 王は、ゆっくりと立ち上がった。玉座を降り、ノアの前に歩み寄る。

 「だが、今の君の目には光がある」

 王の手が、ノアの肩に置かれた。

 「よい。その婚姻、許す。ただし、条件がある」

 ノアの瞳が、微かに揺れた。

 「彼女を守り抜け」

 「……必ず」

 王は頷き、リリーへと視線を向けた。

 「リリー・クロイド、顔を上げよ」

 リリーは、ゆっくりと顔を上げた。

 「君は、ノアの命を救った。その恩、わしは忘れぬ」

 王の声は、静かだった。

 「これから先、宮中には多くの困難があろう。君を妬み、蔑む者もいる。それでも……ノアの隣に立つ覚悟はあるか」

 「……はい」

 小さく、けれど確かな声だった。

 王は、しばらくリリーを見つめていた。やがて、静かに頷いた。

 「よい眼だ」

 それだけ告げると、王は玉座へと戻った。

 「婚姻の準備を進めよ。詳細は後日、宰相と協議する」

 「……ありがとうございます」

 ノアは、深く頭を下げた。リリーも、隣で同じように頭を垂れる。謁見室の空気が、ゆっくりと緩んでいく。
< 98 / 119 >

この作品をシェア

pagetop