婚約破棄されましたが、冷徹御曹司が甘すぎる求婚をしてきます
第三章 冷徹御曹司の婚約者
鷹宮さんとお付き合いを始めてから、三週間が過ぎた。
父へ話そうと決めたのは、彼が白川堂の定休日を覚えていたからだった。
【来週の火曜日は、休めそうですか】
昼休みに届いた連絡を読んで、私は店の予定表を見た。
定休日でも、事務仕事や試作のために店へ出ることは多い。けれど、その日は午後からなら空けられそうだった。
【午後でしたら、大丈夫です】
そう返すと、ほどなく返信が来た。
【それなら、少し遠くまで出かけませんか。行ってみたいところがあるんです】
どこへ、と尋ねようとして、指を止める。
ここ数回、会う場所は私の仕事の都合に合わせてもらっていた。
いつも、私が動ける時間に、私の行きやすい場所で。
彼が行きたいところへも、一緒に行ってみたかった。
【ご一緒したいです】
送信してから、窓へ目を向ける。
午後の光が、事務机の端に当たっていた。
火曜日は父も、私が家にいると思っているだろう。
仕事が入ったと言えば、外出できる。
けれど、そうやって会いたくはなかった。
私は携帯電話を伏せ、隣の机で請求書を確認している父へ向き直った。
「お父さん。今日、仕事が終わったら、少し時間をもらえますか」
父が顔を上げる。
「何かあったのか」
「お話ししたいことがあるんです」
父は一瞬、表情を曇らせた。
私も、その理由はわかった。
相良家との話し合いは、まだ完全には終わっていない。
「直人さんのことでは、ありません」
先にそう言うと、父は少し意外そうな顔をした。
「そうか。じゃあ、夕飯のあとでいいか」
「はい」
頷いたあと、急に落ち着かなくなった。
話すと決めるまでは、ただ報告すればよいと思っていた。
けれど、父はきっと驚く。
婚約を解消して、まだひと月しか経っていないんだから。
***
夕食の皿を片づけると、父が食卓に二つの湯呑みを置いていた。
いつもは自分のぶんだけ淹れる人なので、少し驚く。
「座りなさい」
私は向かいの椅子へ腰を下ろした。
湯呑みの中は、かなり濃い焙じ茶だった。
ひと口飲んでから、両手で包む。
父は何も尋ねずに待っていた。
その姿が、婚約解消を報告した朝と少し違う気がした。
「今、お付き合いをしている方がいます」
言うと、父の眉が上がった。
「……付き合っている?」
「はい。結婚を考えて、お会いしています」
父は手にしていた湯呑みを置いた。
「いつからだ」
「三週間ほど前からです」
「そんなに急に」
思わず顔を伏せかけた。
けれど、ここで曖昧にしてしまったら、父には、私が流されているようにしか見えないだろう。
「知り合ったのは、三年前です。道場でご一緒して、そのあと、お店にも来てくださっていました」
父の目が、何かを探すように細くなった。
「店に?」
「はい。先日の祝賀会で、久しぶりにお会いしたんです」
「どういう人なんだ」
私は一度、湯呑みを置いた。
「鷹宮ホテルズに、お勤めの方です」
「先方の社員さんか」
「……専務をなさっています」
父が黙った。時計の秒針が、ひどく大きく聞こえた。
「鷹宮、怜司さんか」
今度は、私が驚いた。
「ご存じなんですか」
「知っている。直接、ゆっくり話したことはないが」
父は背もたれから身体を起こした。
「お前、それは、本当にそういう話なのか」
私は頷いた。
「ご本人から、結婚のお話をいただきました」
「いや、しかし……」
父が額に手をやる。私も、最初は同じような気持ちだった。
相手を知っているはずなのに、肩書を知った途端、話が別のものに思えてしまう。
「先方のお家は、ご存じなのか」
「まだ、詳しくは。まずは私の気持ちを確かめたいと、おっしゃってくださっています」
「そうか」
父は考え込むように、食卓へ視線を落とした。
「鷹宮家となると、こちらも、きちんとしないとな。今後の店のこともある。ホテルとのつながりが深くなれば――」
「お父さん」
自分でも思っていたより、はっきりした声が出た。父が言葉を止める。
私は膝の上で、指を組んだ。
「お店のために、お受けした話ではありません」
父の顔を見る。
「鷹宮さんも、結婚と仕事は別だと、最初に話してくださいました」
「ああ。それは、そうだな」
父は頷いたが、私はもう少しだけ続けた。
「お店のことは大切です。でも、今回は、それとは別に考えたいんです」
自分で口にして、ようやく、その気持ちが確かなものになった。
店にとってどうなのか。
父にとって、親戚にとって、どう見えるのか。
その前に、私があの人に会いたいのだ。
父はしばらく私を見ていた。
「……お前が、そう言うのは珍しいな」
「そうでしょうか」
「少なくとも、直人さんのときには聞かなかった」
私は返事に迷った。
あの頃は、家同士が望む話を、自分も望んでいると思っていた。
それが全部、嘘だったわけではない。
直人さんと、穏やかな家庭を作れたらと思った。
ただ、そのために自分がどう暮らしたいかを、あまり考えなかった。
「鷹宮さんといると、話してもいいんだと思えるんです」
父が首を傾げる。
「何を」
「好きなもののことも、困ったことも。うまく説明できなくても、聞いてくださるので」
声にすると、頬が少し熱くなった。
父は何か言いかけ、口を閉じた。
それから湯呑みを持ち、冷めかけた茶を飲んだ。
「一度、お会いしたい」
「はい」
「お前を心配して言っているんだ。先方のお家がどうというより……」
言葉が途切れた。
父は湯呑みを置き直す。
「今度は、ちゃんと聞いておきたい」
私は父を見た。
責めるような顔ではなかった。
うまく言葉にできないまま、こちらを見ている。
「私も、会ってもらいたいです」
そう答えると、父は小さく頷いた。
部屋へ戻り、鷹宮さんへ連絡した。
【父に、お付き合いしていることを話しました。一度、お会いしたいと言っています】
送ってから、慌てて文章を読み返す。
急に会いたいと言われたら、困るのではないだろうか。
追って、都合を急がない旨を打ちかけたところで、着信が入った。
画面に名前を見ただけで、胸が鳴る。
「……はい」
『今、少し話せますか』
「大丈夫です」
私は机の椅子へ座った。
彼の声を聞くと、さっきまで気づかなかった緊張がほどけていく。
『お父様へ話してくれたんですね』
「はい。少し驚いていましたけれど」
『それは、そうですよね』
鷹宮さんが小さく息を吐く。
『何か、困ったことはありましたか』
「いいえ。ちゃんと聞いてくれました」
『よかった』
短い返事に、安堵がにじんだ。
私だけでなく、彼も気にしてくれていたらしい。
『俺からも、ご挨拶をお願いしたいと思っていました。お父様の都合のよい日を、教えてもらえますか』
「ありがとうございます。確認して、ご連絡します」
『はい』
話が済んだのに、電話を切るのが少し惜しかった。
携帯電話を持つ手を替える。
すると、彼も同じように黙っていたことに気づいた。
「あの」
『はい』
「お仕事中でしたか」
『今は、帰るところです』
「そうでしたか。お引き止めしてしまって」
『引き止めているのは、こちらかもしれない』
私は口を閉じた。
電話の向こうで、扉の開くような音がした。
続いて、誰かへ短く挨拶をする彼の声。
私に話すときより、少し低く、簡潔だった。
その声が、またこちらへ戻ってくる。
『明日は、何時から仕事ですか』
「七時半です」
『早いですね』
「午前中に、お渡しするご注文があるので。鷹宮さんは?」
『俺も、少し早いかな』
そんな話を、数分した。
明日の天気と、忙しくなりそうな時間のこと。
特別なことは、何もなかった。
それでも電話を切ったあと、部屋がさっきより静かに感じられた。
***
父と鷹宮さんが会う日は、翌週の土曜日に決まった。
場所は、白川家の居間。
店の応接スペースでもよいかと尋ねたけれど、父が「家へ来てもらおう」と言った。
当日の朝から、私は落ち着かなかった。
花を生け直し、座布団の向きを確かめ、何度も時計を見る。
「紗弓、それ、三回目」
店へ出る前に様子を見に来た真帆が、居間の入口で言った。
私は茶器を持つ手を止めた。
「何が?」
「その湯呑み、出して、戻して、また出してる」
気づかれていた。
「おかしくないかなと思って」
「湯呑みが?」
「……いろいろ」
真帆は笑わず、部屋を見渡した。
「いつも通りでいいんじゃない。紗弓の家に来るんだから」
私は手元へ目を落とした。
白い地に細い線が入った湯呑みだった。
母が、客人を迎える日に使っていたもの。
「お母さんがいたら、どうしたかな」
思わずこぼすと、真帆が少し考えた。
「お菓子は、どれがいいかって紗弓に聞いたんじゃない?」
私は顔を上げた。
「そうかな」
「うん。で、紗弓が悩みすぎて、早く決めなさいって言われる」
その光景は、簡単に浮かんだ。
私は小さく笑った。
湯呑みを盆へ並べる。
今日は、これにしよう。
約束の時刻の少し前に、呼び鈴が鳴った。
玄関へ出ると、鷹宮さんが立っていた。
濃い灰色のスーツに、落ち着いた色のネクタイ。
普段より少し改まった姿に、こちらまで背筋が伸びる。
「本日は、お時間をいただいてありがとうございます」
「こちらこそ。どうぞ、お入りください」
いつもよりよそゆきな声になってしまった。
鷹宮さんが靴を脱ぎながら、私を見上げる。
「白川さん」
「はい」
「そんなに緊張されると、俺まで」
声を落として言われ、私は慌てて彼の顔を見た。
「鷹宮さんも、緊張なさるんですか」
「しますよ」
当然のように返される。
「今日は、特に」
その言葉を考える間に、父が廊下へ出てきた。
私は二人を居間へ案内した。
父と向かい合った鷹宮さんは、持参した包みを差し出し、丁寧に挨拶をした。
私は茶を淹れるために一度席を外す。
台所へ入ってから、ふう、と息を吐いた。
手元に集中しよう。
湯の温度を確かめ、急須へ茶葉を入れる。
居間から、低い声が聞こえてくる。
ホテルの祝賀会で出した菓子の話だった。
父が作り手として答え、鷹宮さんが客として感想を伝えている。
そのやり取りが、少しありがたかった。
お盆を持って戻ると、父が私を見た。
「座りなさい」
茶を置き、父の斜め向かいへ腰を下ろす。
鷹宮さんの隣だった。
普段なら取引先の方を迎える配置なのに、今日は違う。
膝の上に手を重ねた。
父はしばらく茶を見てから、顔を上げた。
「娘から、お話は聞きました」
「はい」
「こう申し上げては何ですが、驚いております」
「急なお話になったことは、承知しています」
鷹宮さんの声は落ち着いていた。
けれど、膝へ置かれた指に少し力が入っているのが見えた。
玄関で言っていたのは、私を安心させるためだけではなかったのかもしれない。
「紗弓は、家と店のことばかりで育ってきました。人前で困らない程度のことは教えてきたつもりですが、鷹宮家となりますと――」
父が言葉を選ぶ。
「務まるかどうか、心配もあります」
胸の奥が、少し縮んだ。
間違っていない。
父は私を心配している。
それでも、試される前から、できないかもしれないと言われるのは、思ったよりつらかった。
鷹宮さんが口を開く。
「必要なことは、二人で覚えたいと思っています」
父が彼を見る。
「私は紗弓さんにだけ、最初からできることを求めるつもりはありません」
私は、隣の横顔を見つめた。
鷹宮さんは父へ向き合ったまま、続けた。
「家の付き合いについては、私から説明します。無理なことがあれば、その都度相談して決めたいと思っています」
父はすぐには答えなかった。
私は茶の表面へ目を落とした。
彼の言葉に、ほっとしていた。
けれど、それだけで済ませてはいけない気もした。
「お父さん」
二人の視線が、こちらへ向く。
「私も、まだわからないことばかりです」
指先が冷たかった。
私は膝の上で手をほどいた。
「でも、わからないまま、全部お任せしたいわけではありません。必要なことは教わりたいですし、自分でも考えたいと思っています」
父の顔を見る。
「できるかどうかは、まだ言い切れません。でも、お付き合いを続けたいと思ったのは、私です」
言い終えると、口の中が乾いていた。
父は黙って私を見ていた。
やがて、小さく頷く。
「……そうか」
それから、鷹宮さんへ向き直った。
「この子は、困っていても、なかなか言わないところがありまして」
私は思わず顔を上げた。
父は私を見ずに、続ける。
「親の私が、言えたことではないのですが」
そこで一度、言葉が切れた。
「気づいたときには、無理をさせていたこともあります」
鷹宮さんは静かに聞いていた。
「私も、すべてに気づけるとは思っていません」
父が目を上げる。
「ただ、話してもらえるように、していきたいです」
私は膝の上の指を見た。
その輪郭が、少しぼやけた。
帰る頃には、父の口調もいくらかやわらいでいた。
鷹宮さんの仕事のこと、店へ来ていた頃のこと。
私の知らないところで、父と顔を合わせたこともあったらしい。
「そういえば、あのときの」
父が思い出したように言う。
鷹宮さんが頷いた。
それだけで通じる話が、二人の間にもある。
私は隣で聞きながら、不思議な気持ちになった。
帰り際、父は玄関まで見送った。
「本日は、わざわざありがとうございました」
「こちらこそ。お会いできて、よかったです」
私も外へ出る。
門のところまで歩いたところで、鷹宮さんが足を止めた。
「少し、歩きますか」
父へ声をかけに戻ろうとすると、玄関からこちらを見ていた父が、先に頷いた。
「行っておいで」
私はコートを取りに戻り、彼と並んで歩き出した。
商店街の夕方は、まだ明るい。
自転車が通り過ぎるたび、彼が自然に車道側へ寄る。
しばらく歩いてから、私は口を開いた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。お父様に会わせてくれて、ありがとう」
「お疲れになりませんでしたか」
鷹宮さんは少し考えてから答えた。
「緊張はしました。でも、会えてよかった」
私は頷いた。
同じ気持ちだった。
隠して会いに行くのではなく、自分が会いたい人として父に伝えられた。
それだけで、隣を歩くことが以前より嬉しい。
「あの」
「はい」
「二人で覚えると、おっしゃってくださったこと」
鷹宮さんがこちらを向く。
「嬉しかったです」
彼の歩幅が、少しゆっくりになった。
「本当に、そう思っています」
「はい」
「あれは、お父様を安心させるためだけに言ったんじゃない」
私は彼を見た。
夕方の光が、横顔の輪郭に触れていた。
「困ったら、俺にも教えてください。すぐにうまく答えられないこともあると思うけど、一緒に考えたい」
私は頷き、少し迷ってから尋ねた。
「鷹宮さんも、教えてくださいますか」
彼が足を止めた。
私も止まる。
「困ったときに。私にできることが、あるかもしれませんから」
言ってから、また役に立つ話をしてしまっただろうかと思った。
けれど、彼は困ったようには見えなかった。
「わかりました」
低い声で答える。
「じゃあ、今、一つ頼んでもいいですか」
「はい」
鷹宮さんが、私の手元へ視線を落とした。
「手をつないでも?」
胸が鳴った。
あの夜、駅で言われた言葉を思い出す。
私はコートの袖から、そっと右手を出した。
彼の手が、ゆっくりと重なる。
指を包まれると、思っていたより温かかった。
初めて触れた手ではない。
あの祝賀会の夜も、この手に連れられて歩いた。
けれど今日は、逃げ出すためではなかった。
ただ、並んで歩くために。
私は少しだけ指を曲げた。
握り返したことが伝わったのだろう。
鷹宮さんが私を見て、それから、嬉しそうに笑った。
