恋文は、足跡のかたち
恋文は、足跡のかたち
「上位互換、ですか」
妃真里がそう聞き返すと、会議室の空気が、ほんの少しだけ冷えた。
テーブルの向こうに並んでいるのは、駅前の古い商業ビル「青葉館」の改修案だった。新しい壁、明るい照明、曲線を描く案内板。どれも洗練されている。少なくとも、妃真里の手元にある、傷だらけの木片よりは。
「古い意匠をそのまま残すより、もっと親しみやすく、手入れもしやすいものにしたいんです」
発注元の担当者は悪気なく言った。
「木彫りの動物の足跡、という発想は素敵ですよ。でも、今は機械で均一に加工できますから。いわば上位互換ですね」
妃真里は膝の上で指を組んだ。
青葉館の床には、入口から二階の小さな図書室まで、猫、犬、兎の足跡が点々と彫られている。迷わず歩けるようにと、四十年前に地元の職人が考えたものだ。木目に沿った彫り跡は不揃いで、兎だけが妙に大股だった。小さいころの妃真里は、それが好きで、わざと兎の足跡だけを踏んで階段を上った。
だから今、木工修復士としてその床材の調査を請け負っている。
「均一な加工が優れている場面は、もちろんあります。ただ、あの足跡は……」
言いかけたところで、会議室のドアが開いた。
「すみません。現場の安全確認が長引きました」
入ってきた男性は、濃紺のスーツに図面筒を持っていた。背が高く、姿勢がよく、遅刻した人間特有の慌ただしさがない。最初に現場の管理者へ無事を確認し、それから全員に頭を下げた。
建築設計会社の代表、一級建築士の泰範。三十五歳。海外の改修案件にも携わり、会社を立ち上げて六年で、公共施設の再生を手がけるまでになった人だという。
妃真里は事前に受け取った経歴書を思い出した。経歴だけ見れば、恋愛小説で真っ先に登場しそうな男性だった。
その当人は、席につくなり言った。
「先ほどの『上位互換』という表現、僕は使いません」
担当者が顔を上げる。
「機械加工の長所は精度と量産性です。古い床の長所は、そこを歩いた人の記憶を引き継いでいること。測る物差しが違います。どちらを採用するかは、まず残したい価値を決めてからです」
泰範は妃真里を見た。
「途中で遮ってしまいました。あなたの話の続きを聞かせてもらえますか」
妃真里は、危うくうなずき損ねた。
助け舟を出されたことよりも、途中までしか話していない意見を、意見として扱われたことに驚いた。
「……兎だけ、歩幅が広いんです」
「はい」
「子どもが跳ねたくなる幅にしてある。足跡は案内表示で、同時に遊びなんです。形を似せるだけでは、同じものになりません」
泰範は少し考えて、手帳に何かを書いた。
「なるほど。じゃあ、歩幅まで含めて設計の条件にしましょう」
その瞬間、妃真里は初めて、改修後の青葉館を想像できた。
*
問題は、足跡だけではなかった。
青葉館は雨漏りがひどく、床下にも傷みが見つかっていた。所有者は、残せるものは残したいと言う。一方で、工事費には上限があり、安全基準を満たさなければ図書室を再開できない。
泰範は誰にでも良い顔をしなかった。
残せない柱は残せないと言う。予算を超える提案には、代わりに削れる費用を示してほしいと言う。返事を先送りにせず、決められないことは決められないと説明する。
それでいて、相手の意見を切り捨てなかった。
「妃真里さん。あの床板を外して、新しい構造の上に設置することはできますか」
現場で問われ、妃真里は首を傾げた。
「全部は無理です。外すと割れるものがあります」
「残せる割合は?」
「正確には、一枚ずつ見ないと」
「では、見てください。数値が出るまで、僕は結論を出しません」
「代表なのに、そんなに現場に来るんですね」
「代表だからです。判断を間違えたとき、肩書きだけでは床は支えられないので」
さらりと答えて、泰範はしゃがみ込んだ。高そうなスラックスの膝が埃につくのも構わず、彼女が示した木目を覗き込む。
近い。
石鹸と、ほんの少しの雨の匂いがした。
妃真里は慌てて作業灯の向きを変えた。
「目、悪いんですか?」
「視力は両方一・五です」
「そういうことじゃなくて」
「近すぎました?」
「……はい」
「失礼しました」
泰範はすぐに一歩下がった。言い訳も、妙な笑いもない。
それだけのことなのに、胸が落ち着かなくなった。
その日の帰り際、泰範が封筒を渡してきた。
「修復の追加調査についての契約書です。設計への協力費とは別に、足跡の意匠を新しく使用する場合の条件も書きました。あなたが考えた変更点は、あなたの名前で記録します」
「名前まで?」
「当然でしょう」
彼は不思議そうに答えた。
「人の仕事を尊重するのに、特別な理由が必要ですか」
そんなふうに言う人を、妃真里はあまり知らなかった。
*
二週間後、足跡を救うための作業は行き詰まった。
使える床板は想定より少ない。大部分の板が、裏側から腐食していたのだ。妃真里は修復方法を変え、接合材を試し、保存できる部分を選び直した。それでも、全部は残せない。
「妃真里、あなた疲れてるのよ」
工房に顔を出した瞳が、持ってきたおにぎりを机に置いた。
「疲れてない」
「じゃあ、どうして木槌を冷蔵庫にしまおうとしてるの」
「……冷やしたら接着剤が乾きにくいかなって」
「言い訳が職人すぎる」
瞳は妃真里の隣に座った。昔から世話焼きだが、言葉にしないところまで見抜くのが、少し困る友人だった。
「その社長さん、いい人なんでしょう」
「仕事のできる人」
「それだけ?」
「背も高い。英語が話せる。判断が早い。話を最後まで聞く。現場の人の名前も覚えてる」
「ものすごく数えてるじゃない」
「客観的に」
「はいはい」
妃真里はおにぎりの包みを開きながら、小さくため息をついた。
「でも、私、あの人の前だと、自分の足りないところばっかり気になる」
「どうして?」
「何でもできそうだから。私が失敗したら、もっと優秀な人に頼めば済むでしょう」
瞳は一瞬黙ったあと、妃真里の手のひらをひっくり返した。指の付け根には、小さな切り傷がいくつもある。
「できる人を選ぶだけなら、最初からあなたを呼んでないと思うよ」
妃真里は返事ができなかった。
その夜、工房の扉が控えめにノックされた。
泰範だった。片手に資料、もう片手に小さな紙袋を持っている。
「夜分にすみません。明日の協議に使う図面を届けに」
「メールでもよかったのに」
「言いにくい話があるので」
泰範は真顔になった。
「床を全面保存する案は、明日、正式に外すつもりです」
妃真里の喉が詰まった。
「……そうですか」
「ただし、足跡までなくすとは言っていません。残せる板を測り、歩幅を記録し、劣化した部分だけ新材に置き換える。別の構造で、安全な道を作る案を出します」
彼は図面を広げた。新しい床の上を、古い兎の足跡と新しい兎の足跡が交互に跳ねている。
「どうでしょう。違いを隠すのではなく、年代がわかるようにします」
「……新しいの、形が少し硬いです」
「直せますか」
「直せます」
「では、お願いします」
即答だった。
妃真里が思わず笑うと、泰範も笑った。
「ようやく笑った」
「え?」
「ここに来るまで、僕が何か間違えたのかと考えていました」
「泰範さんでも、そんなこと考えるんですか」
「しょっちゅう。予定外の変更は、実はあまり得意じゃありません。新しい場所で泊まると、一晩目はほぼ眠れないし」
「意外です」
「経歴書には書きませんからね」
彼は紙袋を差し出した。
「それと、これ」
中には、無香料のリップクリームが二本入っていた。
「工房、乾燥しますよね。先週、唇が切れていたので」
「二本?」
「一本は僕のです。現場でずっと唇が荒れていて」
あまりに真面目な顔で言うので、妃真里は笑ってしまった。
「おそろいリップクリームってことですか」
泰範は少しだけ目を見開いた。
それから、図面を読むときには見せない、困ったような笑顔を浮かべた。
「そう言われると、急にうれしくなりますね」
その表情が、妃真里の心に長く残った。
*
協議は通った。
新材と古材を組み合わせた床を採用し、青葉館の図書室を再開する。工事費は上限内。ただし、工程には余裕がない。
ところが、解体調査を進めていたある朝、傷んだ天井の一部が落ちた。
人のいない区画だったため、けが人はいなかった。すぐに作業は止まり、建物全体の安全確認が始まった。
足跡のある床板も、落下物の下敷きになった。
知らせを受けた妃真里が現場に着くと、入口には立入禁止の柵ができていた。
「入れません」
警備員に止められ、妃真里は奥を見つめた。
足跡が、壊れた。
昨日まで救えるはずだったものが、今日は救えないかもしれない。
「私、見てこないと」
「だめです」
背後から泰範の声がした。
振り返ると、彼はヘルメットを抱えて立っていた。いつものスーツではない。作業着の袖が汚れ、額には薄い汗がにじんでいる。
「安全確認が済むまで、誰も入れません」
「私の仕事なんです」
「わかっています」
「だったら」
「あなたがけがをしてもいい理由にはなりません」
低く、はっきりした声だった。
妃真里は唇を噛んだ。彼はスマートフォンを取り出し、すでに撮影された記録画像を見せた。床板の一部は割れていたが、足跡の輪郭が残っているものもある。
「危険箇所を先に撤去し、安全が確認されたものから搬出します。写真と寸法は確保しています。保存できない部分は、あなたの測定記録から作り直せます」
「それは、同じものじゃない」
「はい。同じものではありません」
彼は否定しなかった。
「だから、違いがわかるように残しましょう。古いものが失われた事実まで、なかったことにする必要はない」
妃真里は、息を吸った。
再生と崩壊。修復を仕事にしていれば、いつもその境目に立たされる。残したいと思う気持ちと、残せないという現実。泰範は、そのどちらも軽く扱わない。
「……私、足跡だけは全部残したかった」
「知っています」
「頑張ればできると思ってた」
「うん」
「できなかった」
泰範は、しばらく答えなかった。
やがて、妃真里の目線に合わせて少し屈んだ。
「妃真里さん。残せなかった部分があっても、あなたの仕事が消えるわけじゃありません」
視界がにじむ。
「これまで、誰にも言わなかったんですが」
彼が静かに続けた。
「僕は以前、完成直前の建物で大きな設計変更を経験しました。担当者の判断を信じるべきところで、計画通りに進めたい気持ちが勝った。結局、やり直しが増えて、仲間に無理をさせたんです」
妃真里は顔を上げた。
「それからは、変わることが怖い。今も、急な変更には動揺します」
「そうは見えません」
「そう見えないよう、手順を作っているからです。弱点がないわけじゃない」
彼は、小さく笑った。
「あなたは失敗したら、原因を探して、何度でも手を動かすでしょう。僕には、それがまぶしい」
「そんな大したことじゃ」
「僕にとっては、大したことです」
言い切ってから、彼は柵の向こうを見た。
「今日は、どうしても必要な判断だけします。明日は休んでください。作業の再開日は、あなたの休みを奪わない日程で決めます」
「工期が」
「調整します。費用も、人も。僕の仕事です」
彼の肩には、いくつもの責任が乗っているはずだった。それでも、何でもできるふりをしない。できることとできないことを分けて、自分の引き受けるべきものを引き受ける。
その姿に、妃真里はどうしようもなく胸を打たれた。
*
再開までに、予定より三か月かかった。
妃真里は、古い木材を七枚救った。新しい木材には木目を合わせすぎず、彫りの深さもあえて揃えなかった。古い足跡と新しい足跡が、互いの違いを認めながら二階へ続いていく。
館内の案内板には、制作に携わった職人たちの名前が入った。
再開の日、図書室には子どもたちが集まった。
「兎、ジャンプ!」
小さな女の子が足跡を踏んで跳ねた。その後ろで、弟らしい男の子が猫の足跡を追っていく。
妃真里の横で、泰範は腕を組んでいた。
「歩幅、正解でしたね」
「最初に言ったでしょう」
「言ってくれてよかった」
彼は心底うれしそうだった。
再開を祝う挨拶では、代表者として前に立った泰範が、設計の工夫より先に、職人の名を一人ずつ紹介した。
妃真里の名前が呼ばれたとき、なぜだか背筋が伸びた。
帰りがけ、泰範は妃真里を一階の裏庭に誘った。
秋の風が、植えたばかりの小さな木を揺らしている。そこに置かれたベンチは、新しい木材で作られていた。
「ここ、前は何もなかったですよね」
「余った材料を使ったんです。図書室を利用する人が座れるように」
「泰範さんが考えたんですか」
「提案したのは早苗さんです。僕は予算を通しただけ」
工房仲間の早苗は、人づきあいには淡泊だが、案を見抜く目が鋭い。そんな彼女の名前を、泰範は当然のように出した。
ベンチの背には、兎の足跡が一つだけ彫られている。
「これは?」
「ここから先は、設計図にない話です」
泰範はポケットから白い封筒を取り出した。
「受け取ってもらえますか。返事は、今日じゃなくていいです」
封筒の表には、端正な字で『妃真里さんへ』とある。
妃真里の心臓が跳ねた。
「契約書ですか?」
「違います」
「請求書?」
「違います」
「……では、何ですか」
泰範は一度だけ息を整えた。
「恋文です」
妃真里は、自分の耳を疑った。
「あの、泰範さんって、もっと……こう、スマートに言える人じゃなかったんですか」
「そう思っていたんですが、あなたの前だとうまくいきません」
いつも決断の早い人が、封筒を持つ手に少しだけ力を入れている。
「言葉を間違えたくないので、書きました」
「読んでも?」
「もちろん」
手紙は、便箋一枚だった。
『妃真里さんへ。
僕は、正しい答えを早く出せる人間でありたいと思ってきました。
でも、あなたに会って、答えを急がないことの価値を知りました。小さな傷も、木目の違いも、見過ごさずに確かめる。誰かが残した思いに、時間をかけて向き合う。その姿に、何度も心を動かされました。
あなたが自分の長所を当たり前だと思っているなら、僕は何度でも伝えたい。あなたの仕事は、あなたにしかできません。
そして、仕事をしていないあなたも好きです。
おにぎりの梅干しが酸っぱくて眉をしかめるところ。考えごとをすると前髪を耳にかけるところ。うまくいった日に、子どもみたいに笑うところ。
頑張る日も、休む日も、あなたと同じ時間を過ごしたい。
僕と付き合ってください。
泰範』
一番下には、小さな兎の足跡が一つ描かれていた。
妃真里は便箋を持ったまま、動けなくなった。
「……ずるいです」
「何かまずかったですか」
「仕事してない私も好き、って」
「本当なので」
「そんなの、好きになっちゃうじゃないですか」
泰範が、目を見開いた。
次の瞬間、その整った顔が、見たこともないほど赤くなった。
「それは……期待してもいい返事ですか」
「はい」
妃真里は便箋を丁寧に畳んだ。
「私、泰範さんのことが好きです」
彼は長く息を吐いた。とても頼もしい人なのに、そのときばかりは、ようやく難しい試験に合格した人のような顔をしていた。
「よかった。本当に」
少し迷ってから、彼が手を差し出した。
「手、つないでもいいですか」
「そういうのまで聞くんですね」
「大事なことなので」
妃真里は笑って、その手を取った。
大きくて、温かかった。
「ひとつ、お願いがあるんですけど」
「何でしょう」
「これからも、何でも一人で解決しないでください。私だって、役に立ちたいです」
泰範は、つないだ手を見つめた。
「……はい。頼る練習をします」
「まずは、次の休み。私に決めさせて」
「楽しみにしています」
「予定と違う場所へ行くかもしれませんよ」
「それは少し怖いですね」
「大丈夫。帰る道は、一緒に探しますから」
泰範は笑った。
「では、よろしくお願いします」
その日の夕方、二人は図書室で借りた本を抱えて、青葉館を出た。
入口から続く木彫りの足跡は、古いものも新しいものも、同じ方向へ向かっていた。
並んで歩く二人の足元には、決められた歩幅なんてない。
それでも、何度でも歩調を合わせられる。
妃真里は、コートのポケットでリップクリームに触れた。あの日から使い続けている、小さなおそろい。
唇に笑みが浮かぶ。
完璧な人を好きになったのだと思っていた。
違った。
自分の強さも弱さも引き受けながら、彼女の強さと弱さも大切にしてくれる人を、好きになったのだ。
それこそが、妃真里の思う、たった一人のヒーローだった。
【終】
妃真里がそう聞き返すと、会議室の空気が、ほんの少しだけ冷えた。
テーブルの向こうに並んでいるのは、駅前の古い商業ビル「青葉館」の改修案だった。新しい壁、明るい照明、曲線を描く案内板。どれも洗練されている。少なくとも、妃真里の手元にある、傷だらけの木片よりは。
「古い意匠をそのまま残すより、もっと親しみやすく、手入れもしやすいものにしたいんです」
発注元の担当者は悪気なく言った。
「木彫りの動物の足跡、という発想は素敵ですよ。でも、今は機械で均一に加工できますから。いわば上位互換ですね」
妃真里は膝の上で指を組んだ。
青葉館の床には、入口から二階の小さな図書室まで、猫、犬、兎の足跡が点々と彫られている。迷わず歩けるようにと、四十年前に地元の職人が考えたものだ。木目に沿った彫り跡は不揃いで、兎だけが妙に大股だった。小さいころの妃真里は、それが好きで、わざと兎の足跡だけを踏んで階段を上った。
だから今、木工修復士としてその床材の調査を請け負っている。
「均一な加工が優れている場面は、もちろんあります。ただ、あの足跡は……」
言いかけたところで、会議室のドアが開いた。
「すみません。現場の安全確認が長引きました」
入ってきた男性は、濃紺のスーツに図面筒を持っていた。背が高く、姿勢がよく、遅刻した人間特有の慌ただしさがない。最初に現場の管理者へ無事を確認し、それから全員に頭を下げた。
建築設計会社の代表、一級建築士の泰範。三十五歳。海外の改修案件にも携わり、会社を立ち上げて六年で、公共施設の再生を手がけるまでになった人だという。
妃真里は事前に受け取った経歴書を思い出した。経歴だけ見れば、恋愛小説で真っ先に登場しそうな男性だった。
その当人は、席につくなり言った。
「先ほどの『上位互換』という表現、僕は使いません」
担当者が顔を上げる。
「機械加工の長所は精度と量産性です。古い床の長所は、そこを歩いた人の記憶を引き継いでいること。測る物差しが違います。どちらを採用するかは、まず残したい価値を決めてからです」
泰範は妃真里を見た。
「途中で遮ってしまいました。あなたの話の続きを聞かせてもらえますか」
妃真里は、危うくうなずき損ねた。
助け舟を出されたことよりも、途中までしか話していない意見を、意見として扱われたことに驚いた。
「……兎だけ、歩幅が広いんです」
「はい」
「子どもが跳ねたくなる幅にしてある。足跡は案内表示で、同時に遊びなんです。形を似せるだけでは、同じものになりません」
泰範は少し考えて、手帳に何かを書いた。
「なるほど。じゃあ、歩幅まで含めて設計の条件にしましょう」
その瞬間、妃真里は初めて、改修後の青葉館を想像できた。
*
問題は、足跡だけではなかった。
青葉館は雨漏りがひどく、床下にも傷みが見つかっていた。所有者は、残せるものは残したいと言う。一方で、工事費には上限があり、安全基準を満たさなければ図書室を再開できない。
泰範は誰にでも良い顔をしなかった。
残せない柱は残せないと言う。予算を超える提案には、代わりに削れる費用を示してほしいと言う。返事を先送りにせず、決められないことは決められないと説明する。
それでいて、相手の意見を切り捨てなかった。
「妃真里さん。あの床板を外して、新しい構造の上に設置することはできますか」
現場で問われ、妃真里は首を傾げた。
「全部は無理です。外すと割れるものがあります」
「残せる割合は?」
「正確には、一枚ずつ見ないと」
「では、見てください。数値が出るまで、僕は結論を出しません」
「代表なのに、そんなに現場に来るんですね」
「代表だからです。判断を間違えたとき、肩書きだけでは床は支えられないので」
さらりと答えて、泰範はしゃがみ込んだ。高そうなスラックスの膝が埃につくのも構わず、彼女が示した木目を覗き込む。
近い。
石鹸と、ほんの少しの雨の匂いがした。
妃真里は慌てて作業灯の向きを変えた。
「目、悪いんですか?」
「視力は両方一・五です」
「そういうことじゃなくて」
「近すぎました?」
「……はい」
「失礼しました」
泰範はすぐに一歩下がった。言い訳も、妙な笑いもない。
それだけのことなのに、胸が落ち着かなくなった。
その日の帰り際、泰範が封筒を渡してきた。
「修復の追加調査についての契約書です。設計への協力費とは別に、足跡の意匠を新しく使用する場合の条件も書きました。あなたが考えた変更点は、あなたの名前で記録します」
「名前まで?」
「当然でしょう」
彼は不思議そうに答えた。
「人の仕事を尊重するのに、特別な理由が必要ですか」
そんなふうに言う人を、妃真里はあまり知らなかった。
*
二週間後、足跡を救うための作業は行き詰まった。
使える床板は想定より少ない。大部分の板が、裏側から腐食していたのだ。妃真里は修復方法を変え、接合材を試し、保存できる部分を選び直した。それでも、全部は残せない。
「妃真里、あなた疲れてるのよ」
工房に顔を出した瞳が、持ってきたおにぎりを机に置いた。
「疲れてない」
「じゃあ、どうして木槌を冷蔵庫にしまおうとしてるの」
「……冷やしたら接着剤が乾きにくいかなって」
「言い訳が職人すぎる」
瞳は妃真里の隣に座った。昔から世話焼きだが、言葉にしないところまで見抜くのが、少し困る友人だった。
「その社長さん、いい人なんでしょう」
「仕事のできる人」
「それだけ?」
「背も高い。英語が話せる。判断が早い。話を最後まで聞く。現場の人の名前も覚えてる」
「ものすごく数えてるじゃない」
「客観的に」
「はいはい」
妃真里はおにぎりの包みを開きながら、小さくため息をついた。
「でも、私、あの人の前だと、自分の足りないところばっかり気になる」
「どうして?」
「何でもできそうだから。私が失敗したら、もっと優秀な人に頼めば済むでしょう」
瞳は一瞬黙ったあと、妃真里の手のひらをひっくり返した。指の付け根には、小さな切り傷がいくつもある。
「できる人を選ぶだけなら、最初からあなたを呼んでないと思うよ」
妃真里は返事ができなかった。
その夜、工房の扉が控えめにノックされた。
泰範だった。片手に資料、もう片手に小さな紙袋を持っている。
「夜分にすみません。明日の協議に使う図面を届けに」
「メールでもよかったのに」
「言いにくい話があるので」
泰範は真顔になった。
「床を全面保存する案は、明日、正式に外すつもりです」
妃真里の喉が詰まった。
「……そうですか」
「ただし、足跡までなくすとは言っていません。残せる板を測り、歩幅を記録し、劣化した部分だけ新材に置き換える。別の構造で、安全な道を作る案を出します」
彼は図面を広げた。新しい床の上を、古い兎の足跡と新しい兎の足跡が交互に跳ねている。
「どうでしょう。違いを隠すのではなく、年代がわかるようにします」
「……新しいの、形が少し硬いです」
「直せますか」
「直せます」
「では、お願いします」
即答だった。
妃真里が思わず笑うと、泰範も笑った。
「ようやく笑った」
「え?」
「ここに来るまで、僕が何か間違えたのかと考えていました」
「泰範さんでも、そんなこと考えるんですか」
「しょっちゅう。予定外の変更は、実はあまり得意じゃありません。新しい場所で泊まると、一晩目はほぼ眠れないし」
「意外です」
「経歴書には書きませんからね」
彼は紙袋を差し出した。
「それと、これ」
中には、無香料のリップクリームが二本入っていた。
「工房、乾燥しますよね。先週、唇が切れていたので」
「二本?」
「一本は僕のです。現場でずっと唇が荒れていて」
あまりに真面目な顔で言うので、妃真里は笑ってしまった。
「おそろいリップクリームってことですか」
泰範は少しだけ目を見開いた。
それから、図面を読むときには見せない、困ったような笑顔を浮かべた。
「そう言われると、急にうれしくなりますね」
その表情が、妃真里の心に長く残った。
*
協議は通った。
新材と古材を組み合わせた床を採用し、青葉館の図書室を再開する。工事費は上限内。ただし、工程には余裕がない。
ところが、解体調査を進めていたある朝、傷んだ天井の一部が落ちた。
人のいない区画だったため、けが人はいなかった。すぐに作業は止まり、建物全体の安全確認が始まった。
足跡のある床板も、落下物の下敷きになった。
知らせを受けた妃真里が現場に着くと、入口には立入禁止の柵ができていた。
「入れません」
警備員に止められ、妃真里は奥を見つめた。
足跡が、壊れた。
昨日まで救えるはずだったものが、今日は救えないかもしれない。
「私、見てこないと」
「だめです」
背後から泰範の声がした。
振り返ると、彼はヘルメットを抱えて立っていた。いつものスーツではない。作業着の袖が汚れ、額には薄い汗がにじんでいる。
「安全確認が済むまで、誰も入れません」
「私の仕事なんです」
「わかっています」
「だったら」
「あなたがけがをしてもいい理由にはなりません」
低く、はっきりした声だった。
妃真里は唇を噛んだ。彼はスマートフォンを取り出し、すでに撮影された記録画像を見せた。床板の一部は割れていたが、足跡の輪郭が残っているものもある。
「危険箇所を先に撤去し、安全が確認されたものから搬出します。写真と寸法は確保しています。保存できない部分は、あなたの測定記録から作り直せます」
「それは、同じものじゃない」
「はい。同じものではありません」
彼は否定しなかった。
「だから、違いがわかるように残しましょう。古いものが失われた事実まで、なかったことにする必要はない」
妃真里は、息を吸った。
再生と崩壊。修復を仕事にしていれば、いつもその境目に立たされる。残したいと思う気持ちと、残せないという現実。泰範は、そのどちらも軽く扱わない。
「……私、足跡だけは全部残したかった」
「知っています」
「頑張ればできると思ってた」
「うん」
「できなかった」
泰範は、しばらく答えなかった。
やがて、妃真里の目線に合わせて少し屈んだ。
「妃真里さん。残せなかった部分があっても、あなたの仕事が消えるわけじゃありません」
視界がにじむ。
「これまで、誰にも言わなかったんですが」
彼が静かに続けた。
「僕は以前、完成直前の建物で大きな設計変更を経験しました。担当者の判断を信じるべきところで、計画通りに進めたい気持ちが勝った。結局、やり直しが増えて、仲間に無理をさせたんです」
妃真里は顔を上げた。
「それからは、変わることが怖い。今も、急な変更には動揺します」
「そうは見えません」
「そう見えないよう、手順を作っているからです。弱点がないわけじゃない」
彼は、小さく笑った。
「あなたは失敗したら、原因を探して、何度でも手を動かすでしょう。僕には、それがまぶしい」
「そんな大したことじゃ」
「僕にとっては、大したことです」
言い切ってから、彼は柵の向こうを見た。
「今日は、どうしても必要な判断だけします。明日は休んでください。作業の再開日は、あなたの休みを奪わない日程で決めます」
「工期が」
「調整します。費用も、人も。僕の仕事です」
彼の肩には、いくつもの責任が乗っているはずだった。それでも、何でもできるふりをしない。できることとできないことを分けて、自分の引き受けるべきものを引き受ける。
その姿に、妃真里はどうしようもなく胸を打たれた。
*
再開までに、予定より三か月かかった。
妃真里は、古い木材を七枚救った。新しい木材には木目を合わせすぎず、彫りの深さもあえて揃えなかった。古い足跡と新しい足跡が、互いの違いを認めながら二階へ続いていく。
館内の案内板には、制作に携わった職人たちの名前が入った。
再開の日、図書室には子どもたちが集まった。
「兎、ジャンプ!」
小さな女の子が足跡を踏んで跳ねた。その後ろで、弟らしい男の子が猫の足跡を追っていく。
妃真里の横で、泰範は腕を組んでいた。
「歩幅、正解でしたね」
「最初に言ったでしょう」
「言ってくれてよかった」
彼は心底うれしそうだった。
再開を祝う挨拶では、代表者として前に立った泰範が、設計の工夫より先に、職人の名を一人ずつ紹介した。
妃真里の名前が呼ばれたとき、なぜだか背筋が伸びた。
帰りがけ、泰範は妃真里を一階の裏庭に誘った。
秋の風が、植えたばかりの小さな木を揺らしている。そこに置かれたベンチは、新しい木材で作られていた。
「ここ、前は何もなかったですよね」
「余った材料を使ったんです。図書室を利用する人が座れるように」
「泰範さんが考えたんですか」
「提案したのは早苗さんです。僕は予算を通しただけ」
工房仲間の早苗は、人づきあいには淡泊だが、案を見抜く目が鋭い。そんな彼女の名前を、泰範は当然のように出した。
ベンチの背には、兎の足跡が一つだけ彫られている。
「これは?」
「ここから先は、設計図にない話です」
泰範はポケットから白い封筒を取り出した。
「受け取ってもらえますか。返事は、今日じゃなくていいです」
封筒の表には、端正な字で『妃真里さんへ』とある。
妃真里の心臓が跳ねた。
「契約書ですか?」
「違います」
「請求書?」
「違います」
「……では、何ですか」
泰範は一度だけ息を整えた。
「恋文です」
妃真里は、自分の耳を疑った。
「あの、泰範さんって、もっと……こう、スマートに言える人じゃなかったんですか」
「そう思っていたんですが、あなたの前だとうまくいきません」
いつも決断の早い人が、封筒を持つ手に少しだけ力を入れている。
「言葉を間違えたくないので、書きました」
「読んでも?」
「もちろん」
手紙は、便箋一枚だった。
『妃真里さんへ。
僕は、正しい答えを早く出せる人間でありたいと思ってきました。
でも、あなたに会って、答えを急がないことの価値を知りました。小さな傷も、木目の違いも、見過ごさずに確かめる。誰かが残した思いに、時間をかけて向き合う。その姿に、何度も心を動かされました。
あなたが自分の長所を当たり前だと思っているなら、僕は何度でも伝えたい。あなたの仕事は、あなたにしかできません。
そして、仕事をしていないあなたも好きです。
おにぎりの梅干しが酸っぱくて眉をしかめるところ。考えごとをすると前髪を耳にかけるところ。うまくいった日に、子どもみたいに笑うところ。
頑張る日も、休む日も、あなたと同じ時間を過ごしたい。
僕と付き合ってください。
泰範』
一番下には、小さな兎の足跡が一つ描かれていた。
妃真里は便箋を持ったまま、動けなくなった。
「……ずるいです」
「何かまずかったですか」
「仕事してない私も好き、って」
「本当なので」
「そんなの、好きになっちゃうじゃないですか」
泰範が、目を見開いた。
次の瞬間、その整った顔が、見たこともないほど赤くなった。
「それは……期待してもいい返事ですか」
「はい」
妃真里は便箋を丁寧に畳んだ。
「私、泰範さんのことが好きです」
彼は長く息を吐いた。とても頼もしい人なのに、そのときばかりは、ようやく難しい試験に合格した人のような顔をしていた。
「よかった。本当に」
少し迷ってから、彼が手を差し出した。
「手、つないでもいいですか」
「そういうのまで聞くんですね」
「大事なことなので」
妃真里は笑って、その手を取った。
大きくて、温かかった。
「ひとつ、お願いがあるんですけど」
「何でしょう」
「これからも、何でも一人で解決しないでください。私だって、役に立ちたいです」
泰範は、つないだ手を見つめた。
「……はい。頼る練習をします」
「まずは、次の休み。私に決めさせて」
「楽しみにしています」
「予定と違う場所へ行くかもしれませんよ」
「それは少し怖いですね」
「大丈夫。帰る道は、一緒に探しますから」
泰範は笑った。
「では、よろしくお願いします」
その日の夕方、二人は図書室で借りた本を抱えて、青葉館を出た。
入口から続く木彫りの足跡は、古いものも新しいものも、同じ方向へ向かっていた。
並んで歩く二人の足元には、決められた歩幅なんてない。
それでも、何度でも歩調を合わせられる。
妃真里は、コートのポケットでリップクリームに触れた。あの日から使い続けている、小さなおそろい。
唇に笑みが浮かぶ。
完璧な人を好きになったのだと思っていた。
違った。
自分の強さも弱さも引き受けながら、彼女の強さと弱さも大切にしてくれる人を、好きになったのだ。
それこそが、妃真里の思う、たった一人のヒーローだった。
【終】


