君だけに奏でる愛のカノン〜世界的ピアニストの甘い溺愛〜
 とは言っても、名前も知らない、ボサボサ頭で目元も隠れていて顔すらもまともに見ていない人のことだけれど。

 今日のメンバーは、音楽大学で共に学んだ仲間たち。私が、その男性に出会ったのは、大学の卒業演奏会の時だったから、みんなその話は知っている。けれど独身最後ということで、またその話をせがんでくる。

 その男性は、もうすぐ夫となる人ではない。

 名前が分からないから、『美しい音を奏でる人』という意味を込めて、心の中で『奏君』と呼んでいるのだけど。

「もう、仕方ないなあ」

 そんな風に言いながらも、私はまた奏君の話をできるのが嬉しかった。

 きっと一生忘れることはない。私のピンチを救ってくれたヒーローの話を聞いてもらおう。

「その日は、卒業演奏会の日だったの。自作曲を二台のピアノで演奏する予定だったんだけど、パートナーが大雪による交通機関の乱れで会場に辿り着けなくなってしまって……」

***

 五年前の二月。

 あまり雪の降らない東京で、数年ぶりに大雪に見舞われた直後のことだった。

 雪は二日前に止んだけれど、積雪による交通機関の乱れや道路の混雑はまだ緩和されずにいた。

 そんな中、卒業演奏会が行われようとしていた。

 私はその時、卒業を間近に控える大学四年生だった。

 音楽大学の作曲科で学んだ私は、自分が卒業課題として作曲した曲をピアノで演奏することになっていた。

 二台のピアノで演奏する曲だったので、ピアノ科の後輩にパートナーを頼んでいた。

 もう何曲か後に私の出番が来る。

 けれど、後輩は交通機関が麻痺してしまった場所にいて、他の手段はなく、時間までに会場に着くことは絶望的だった。

 電話越しに何度もすまなそうに謝る後輩を必死になだめたけれど、私も立っているのが精一杯な気持ちでいた。

 これは二台のピアノで同時に演奏することを想定した曲。一人で奏でることは――不可能だった。

 電話を切ると、コートを羽織りなぜか楽譜を持ってバックステージを出た。動揺していたのかもしれない。

 外に出たところで、未だ遠くにいる後輩が見つかるはずもないことは頭では分かっていたけれど、何かをせずにはいられなかった。

 外の冷たい空気が鼻腔を刺す。

 これからピアノを弾くのだ。指が悴むこの寒さの中に居てはいけない。

 それなのに……。

 悴んだ指先を温めようとした時、楽譜の何枚かが風に吹かれて飛んでいってしまった。

 その瞬間――気持ちが折れた。

 もうダメ。
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