君だけに奏でる愛のカノン〜世界的ピアニストの甘い溺愛〜
 後輩は来れない。予定通りの演奏はできない。私の学生生活最後の大舞台は、始める前から終わってしまった気がした。

 作曲家になることを夢見ていたけれど、安定した生活のために卒業後は一般企業に就職することが決まっている私にとって、自分の曲を披露する最後の機会なのに……。

 この日のために頑張ってきたのに。

 涙が一筋あふれ落ちた。

 化粧が崩れてしまう。

 そう思うのに、このまま泣き崩れそうになった。

 その時、私の作った曲のハミングが聞こえてきた。

 誰かが歌っている?

 その音は、上手く言えないけれど温かみがあって、私の曲が喜んでいるように感じた。

 ハッとして辺りを見渡すと、ボサボサの髪で顔がよく見えないけど、若そうな男の人が立っていた。

 風に飛ばされた私の楽譜を手に持って。

「この曲、いいね。……生命の息吹を感じる」

 この寒さの中にあっても、私の曲のコンセプトを掴み取る人がいたことに驚いた。

「……ありがとう。そういう気持ちで、作ったのよ」
「弾いてみたいな」
「え? あなた……ピアノが弾けるの?」

 彼は、一瞬ポカンと口を開けたけれど……口元に不敵な笑みが浮かんだ。

「弾けるよ。この曲、弾いてみたい」
「本当?」

 私は、驚きのあまり彼を凝視してしまった。

 この髪がボサボサの名前も知らない人が、有名でも何でもない私が作った曲を、弾けるですって?!

「あなた、初見でこれが弾けるのね?」
「うん」

 私には、彼が天使に見えた。

 こんなことが現実に起こり得るなんて。

「じゃあ、お願い! もうすぐ私の番がくる。一緒に弾いてもらえる?」
「……いいよ」

 私は、さっきポキッと折れたはずの気持ちが彼の一言で一気に引き戻されるのを感じた。

 ううん。それどころか、湧き上がる高揚感。

 私は、彼の腕を両手で掴むと、会場の裏口へと向かった。

 パートナーを頼んでいた後輩と幸い背丈が同じくらい。髪で目元も見えないし、これならなんとか誤魔化せそう。

 後輩の分の出演者パスで会場に入った。

 ざわめく楽屋の片隅で、後輩が着るはずだったジャケットを彼に渡す。

「とりあえずこれを着て。楽譜はこれ。私が先に弾き始めるからあなたは適当に合わせてくれればいいから」
「Alles klar.」

 ドイツ語?

 クラシック音楽の歴史や作品への関心から第二外国語はドイツ語を取ったから、今「了解」と言ったのだと分かった。

 でも、意識が本番に向きすぎてそれ以上は頭が回らない。

 舞台の袖から拍手が響いてくる。

 前の人の演奏が終わった。

 次は、私の……いいえ、私たちの番。

 曲紹介のアナウンスが終わると、私たちは舞台へ上がった。

 並んで正面に立ち、お辞儀をするとそれぞれのピアノに向かう。

 向かい合うように配置されたピアノの椅子に腰掛け、微調整をする。

 彼の髪はボサボサで目はよく見えなかったけれど、視線が合った気がした。

 私が息を吸い込む音を合図に演奏が始まる。
< 3 / 9 >

この作品をシェア

pagetop