君だけに奏でる愛のカノン〜世界的ピアニストの甘い溺愛〜
 ただでさえ混乱した心を、容赦なく抉ってくる思い出から逃げるために。

 駅に着くと、目の前に到着した電車に乗った。どの方面行きとか、目的地とか、考えることはできなかった。

 ――どこでもいい。ここじゃなければ。

 電車が動き出す。流れて行く景色をただぼんやりと見つめた。

 考えられないから、身体が赴くままに進む。

 何度か乗り換えると、見覚えのある景色に気付いた。どうやら私は、自然に大学の卒業演奏会が開催されたホールに向かっていたらしい。

 私の最良の瞬間が詰まったあの場所に。

 あの感動が蘇れば、このぐちゃぐちゃな気持ちを整理して前に進めるかも知れない。

 私は、一縷の希望を胸にそのままホールを目指した。

 ホールに着くと……エントランスは施錠されていて中には入れなかった。

 まだ、朝早いもの。当たり前よね。

 仕方なく隣接した駐車場へ回る。でも、私にとって思い出深いのは、奏君と通った裏口だったから、一目見たいと思って。

 もちろん、閉まっている。人気のない裏口を見て、ガッカリする自分に戸惑った。

 私は、何を期待していたの?

 もしかしたら偶然、奏君に会えるかも知れないと?

 ……そうかも知れない。

 そんなことが起こるはずないじゃない。それは映画やドラマの中だけの話。

 場所を変えてもやっぱり、私の現実は酷いままだった。

 これから、どうしよう?

 幸せの象徴である婚約指輪を、投げ捨ててみようか。

 どうせ私は、幸せな結婚など掴めなかったのだから。

 婚約指輪が、辛すぎる現実から逃れられなくする足枷のように思えた。

 確かホールの裏手は、川だった気がする。

 裏口を離れると川沿いの歩道を歩いた。

 手には婚約指輪がある。橋の上から川に流せば、なかったことにならないかしら?

 そんなことを思いながら、橋の途中で立ち止まった。

 風に吹かれながら、川の流れを見つめる。

 指先で摘んだ指輪越しに見える丸い世界が、やけに小さく見えた。

 そこに――。

「すみません」

 急に声を掛けられて、驚いた拍子に指輪が手から滑り落ちた。

「あっ!」

 ……ダイヤモンドの付いた指輪は、呆気なく水の流れに吸い込まれ、見えなくなった。

「すみません! 今、何か落としましたよね? 大事なものだったんじゃ……」
「いいえ。もう要らないものだったので、大丈夫です」

 私の手から指輪がなくなると、驚くほど気持ちが軽くなった。自分一人じゃ、いつまでも捨てられなかったかも知れない。感謝の気持ちを覚えて、少し慌てた様子の声の主へと振り向いた。

「……奏君?」

 そこに立っていたのは、あの時と同じように前髪がボサボサで目が隠れている男性だった。

 ――まさか? 嘘でしょう?!
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