Héritage
第3章 決められた未来
翌日の昼過ぎ、豊嶋家から連絡が入った
父親から聞かされた話の続きだという
分かっていた
昨日、神崎家で聞かされたことと同じ話だろう
それでも、車を降りたときから気持ちは重かった
豊嶋家の屋敷へ入り、通された応接室には、更の両親がいた
そして、更もそこに座っていた
「来てくれてありがとう、輝くん」
「いえ」
挨拶を交わし、席につく
更とは一度だけ目が合った
昨日、海辺で見たときより顔色は戻っている
けれど、目元にはまだ疲れが残っていた
無理をしているのかもしれない
そう思ったところで、更の父親が口を開いた
「昨日、神崎家から話があったと思う」
「はい」
「こちらでも、同じ話をしている」
父親が更を見る
「瞬君が亡くなったことで、両家の関係を変えるつもりはない」
分かっている
神崎家と豊嶋家が長く築いてきた関係は、俺たち二人の気持ちだけで変えられるものじゃない
「婚姻についても、予定通り進める」
予定通り
その言葉が、妙に引っかかった
兄貴が亡くなったことは、予定通りじゃない
昨日、兄貴を送り出したばかりなのに
もう、その先の話が始まっている
「具体的なことについては、喪が明けてから改めて話をする」
「公表も、それまではしない」
「分かりました」
俺が答える
隣にいる更も、小さく頷いた
「更も、それでいいな?」
「……はい」
更の返事は静かだった
反対するわけでもない
納得しているようにも見えない
ただ、今ここで何を言っても変わらないことを分かっているような返事だった
それ以上の話はなかった
両親が部屋を出ていく
扉が閉まる
静かになった部屋で、俺と更だけが残った
しばらく、どちらも口を開かなかった
窓の外では、庭の木々が風に揺れている
「……ねえ、輝」
「ん?」
「昨日、瞬を送り出したばかりなのに」
更が窓の外を見たまま言った
「うん」
「どうして、こんなに早く次の話になるんだろう」
俺は答えられなかった
同じことを考えていた
「私たち、まだ何も考えられないよね」
「ああ」
「瞬がいなくなったことだって、ちゃんと受け止められてないのに」
「……そうだな」
俺はソファの背もたれに身体を預けた
「こういう家では、普通なのかな」
「分からない」
「輝でも分からない?」
「俺だって、こういうことを経験したことがない」
更が少しだけ笑った
笑ったというより、困ったように口元を緩めただけだった
「そうだよね」
また、沈黙が落ちる
「でも」
更が小さく息を吐いた
「両家にとっては、待っていられないことなのかもしれないね」
「……ああ」
それも分かっていた
神崎家と豊嶋家にとって、俺たち個人の悲しみだけで止められないものがある
それでも、気持ちはそんなに簡単には切り替わらない
「私、結婚が嫌だとか、そういうことじゃないの」
更が言った
「ただ……今なのかなって思って」
その言葉が、妙に胸に残った
「俺も同じだ」
初めて、素直に言えた
「結婚することを考えられないわけじゃない」
自分でも驚くほど、言葉が続いた
「でも、今は兄貴がいなくなったことのほうが大きい」
「……うん」
更が頷く
それ以上は、何も言わなかった
それでよかった
無理に答えを出す必要はない
少なくとも今は
そのときだった
「っ……」
立ち上がろうとした俺の手が、テーブルの角に当たった
小指に鈍い痛みが走る
「大丈夫?」
「平気」
手を引く
けれど、更の視線が俺の小指に止まった
「輝、血が出てる」
「これくらいなら大丈夫だろ」
「ちょっと待って」
更が立ち上がり、部屋の隅に置かれた救急箱を取りに行く
「座って」
「いや、本当に大したことないから」
「いいから」
戻ってきた更が、俺の手を取った
傷口を確認して、ガーゼで滲んだ血を拭う
その手つきは落ち着いていた
「痛い?」
「平気」
「そう」
更はそれ以上何も言わず、絆創膏を小指に巻いた
端を指先で押さえて、俺の手を離す
「これで大丈夫」
「……ありがとう」
「ううん」
更は救急箱を閉じた
ほんの数分前まで、兄貴の死と結婚の話をしていた
なのに今は、こんな小さな傷のことで更と向き合っている
そのことが、少しだけ不思議だった
「じゃあ、俺は帰る」
「うん」
玄関まで見送ってくれた更に、軽く手を上げる
「また連絡する」
「分かった」
車に乗り込み、屋敷を離れる
***
しばらく走ったところで、何気なく左手を見る
小指に貼られた絆創膏
こんな小さな傷、自分でどうにでもできた
家に帰れば、救急箱だってある
それなのに、剥がす気にはならなかった
更の指先を思い出す
傷口を拭っていたときの表情
絆創膏を貼るために、俺の手を取ったときの感触
ほんの数分前のことなのに、妙に鮮明だった
更にとっては、何でもないことなのかもしれない
昔から知っている相手が怪我をしていた
だから手当てした
それだけのことだ
そう思いながら、俺は小指に貼られた絆創膏をしばらく眺めていた
父親から聞かされた話の続きだという
分かっていた
昨日、神崎家で聞かされたことと同じ話だろう
それでも、車を降りたときから気持ちは重かった
豊嶋家の屋敷へ入り、通された応接室には、更の両親がいた
そして、更もそこに座っていた
「来てくれてありがとう、輝くん」
「いえ」
挨拶を交わし、席につく
更とは一度だけ目が合った
昨日、海辺で見たときより顔色は戻っている
けれど、目元にはまだ疲れが残っていた
無理をしているのかもしれない
そう思ったところで、更の父親が口を開いた
「昨日、神崎家から話があったと思う」
「はい」
「こちらでも、同じ話をしている」
父親が更を見る
「瞬君が亡くなったことで、両家の関係を変えるつもりはない」
分かっている
神崎家と豊嶋家が長く築いてきた関係は、俺たち二人の気持ちだけで変えられるものじゃない
「婚姻についても、予定通り進める」
予定通り
その言葉が、妙に引っかかった
兄貴が亡くなったことは、予定通りじゃない
昨日、兄貴を送り出したばかりなのに
もう、その先の話が始まっている
「具体的なことについては、喪が明けてから改めて話をする」
「公表も、それまではしない」
「分かりました」
俺が答える
隣にいる更も、小さく頷いた
「更も、それでいいな?」
「……はい」
更の返事は静かだった
反対するわけでもない
納得しているようにも見えない
ただ、今ここで何を言っても変わらないことを分かっているような返事だった
それ以上の話はなかった
両親が部屋を出ていく
扉が閉まる
静かになった部屋で、俺と更だけが残った
しばらく、どちらも口を開かなかった
窓の外では、庭の木々が風に揺れている
「……ねえ、輝」
「ん?」
「昨日、瞬を送り出したばかりなのに」
更が窓の外を見たまま言った
「うん」
「どうして、こんなに早く次の話になるんだろう」
俺は答えられなかった
同じことを考えていた
「私たち、まだ何も考えられないよね」
「ああ」
「瞬がいなくなったことだって、ちゃんと受け止められてないのに」
「……そうだな」
俺はソファの背もたれに身体を預けた
「こういう家では、普通なのかな」
「分からない」
「輝でも分からない?」
「俺だって、こういうことを経験したことがない」
更が少しだけ笑った
笑ったというより、困ったように口元を緩めただけだった
「そうだよね」
また、沈黙が落ちる
「でも」
更が小さく息を吐いた
「両家にとっては、待っていられないことなのかもしれないね」
「……ああ」
それも分かっていた
神崎家と豊嶋家にとって、俺たち個人の悲しみだけで止められないものがある
それでも、気持ちはそんなに簡単には切り替わらない
「私、結婚が嫌だとか、そういうことじゃないの」
更が言った
「ただ……今なのかなって思って」
その言葉が、妙に胸に残った
「俺も同じだ」
初めて、素直に言えた
「結婚することを考えられないわけじゃない」
自分でも驚くほど、言葉が続いた
「でも、今は兄貴がいなくなったことのほうが大きい」
「……うん」
更が頷く
それ以上は、何も言わなかった
それでよかった
無理に答えを出す必要はない
少なくとも今は
そのときだった
「っ……」
立ち上がろうとした俺の手が、テーブルの角に当たった
小指に鈍い痛みが走る
「大丈夫?」
「平気」
手を引く
けれど、更の視線が俺の小指に止まった
「輝、血が出てる」
「これくらいなら大丈夫だろ」
「ちょっと待って」
更が立ち上がり、部屋の隅に置かれた救急箱を取りに行く
「座って」
「いや、本当に大したことないから」
「いいから」
戻ってきた更が、俺の手を取った
傷口を確認して、ガーゼで滲んだ血を拭う
その手つきは落ち着いていた
「痛い?」
「平気」
「そう」
更はそれ以上何も言わず、絆創膏を小指に巻いた
端を指先で押さえて、俺の手を離す
「これで大丈夫」
「……ありがとう」
「ううん」
更は救急箱を閉じた
ほんの数分前まで、兄貴の死と結婚の話をしていた
なのに今は、こんな小さな傷のことで更と向き合っている
そのことが、少しだけ不思議だった
「じゃあ、俺は帰る」
「うん」
玄関まで見送ってくれた更に、軽く手を上げる
「また連絡する」
「分かった」
車に乗り込み、屋敷を離れる
***
しばらく走ったところで、何気なく左手を見る
小指に貼られた絆創膏
こんな小さな傷、自分でどうにでもできた
家に帰れば、救急箱だってある
それなのに、剥がす気にはならなかった
更の指先を思い出す
傷口を拭っていたときの表情
絆創膏を貼るために、俺の手を取ったときの感触
ほんの数分前のことなのに、妙に鮮明だった
更にとっては、何でもないことなのかもしれない
昔から知っている相手が怪我をしていた
だから手当てした
それだけのことだ
そう思いながら、俺は小指に貼られた絆創膏をしばらく眺めていた