魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第九章 古い温室の厨房


温室の土の匂いは、雨の前がいちばん強い――ユリウスの手紙は正しかった。
温室の戸を開けた瞬間、リゼットは香り帳の『まだ嗅いでいない香りの目録』を思い出した。最初の項目に、静かに線を引く。『温室の土――嗅いだ。雨の前は、本当にいちばん強い』。行けない場所の地図が、一つずつ、行った場所の記録に変わっていく。
入学から二週間、リゼットは午後の自由時間に温室へ通っていた。各地の植物が集まるそこは、彼女にとって図書館より雄弁だった。温室の管理を手伝う生徒の中に、ミレイユがいた。職人の家から来たという彼女は、土の付いた手で平然と高価な苗を扱い、値段の話を遠慮なくした。
「その香辛植物、学府の仕入れだと三倍しますよ。苗で買ってここで増やせば、来季からはタダ同然」
「……詳しいのですね」
「実家が道具屋でして。物の値段と手間は、嘘をつきませんから」
温室の奥には、使われていない古い厨房があった。昔、植物学の実習で煎じ薬を作っていた場所で、今は物置同然だった。魔力竈は壊れ、水場はある。リゼットはその部屋を見て、心臓が跳ねた。
ここに、調合室が作れる。
学府で研究会を設立するには、申請と、顧問と、予算計画が要った。アルベールの声が頭の中で聞こえた。『願いを、計画に変えましょう』。リゼットは香り帳の新しい頁に、目的、必要な設備、費用の見積もりを書き連ねた。分からない数字はミレイユに聞き、壊れた竈はセドリックに見てもらった。
「竈の調律回路が死んでますね。部品を替えれば使えます。……ていうか、替えます。面白そうなので」
予算の査定では、ミレイユの現実感覚が光った。竈の部品の見積もりを取りに来た職人に、彼女は相見積もりの数字を突きつけて平然と交渉した。
「学生相手でも、手は抜かせません。あと、納期は祭りの前。……向こうの店は、あと二割引きましたけど」
「やるなあ、職人の娘」とセドリックが感心し、リゼットは「交渉は、数字と根拠」と香り帳に書き足した。申請の書類は、結局、兄アルベールの教えと、学友たちの実務で完成したのだった。
顧問は植物学の老教授が引き受けてくれた。申請が通った日、研究会の名前はこう決まった。
『香辛植物と食文化の研究会』
最初の活動は、地味だった。温室の香辛植物の目録を作り、厨房を掃除し、各地の生徒に「故郷の味」について聞く掲示を出す。
相談は、意外な速さで来た。
東の街道沿いの町出身の生徒が、故郷の漬物の酸味が恋しいと言った。学府の食堂の漬物は塩が強すぎる。
「私の町では、漬物はもっと、歯に来る酸っぱさで。あれがないと、ご飯が進まないんです」
「酸味は、何でつけていましたか。酢ですか、実ですか」
「黄色い実を潰して……名前は、町でしか通じない呼び方で」
その実はこの辺りにはなかった。けれど酸味の役は、別の材料でも担える。リゼットは干した山査子を戻した汁と、酢の配合を三通り作り、食堂の料理人も呼んで、四人で味見をした。三つ目を口にした相談者が、はっと顔を上げた。
「これです。実は違うのに、歯に来る感じが、同じで」
三日かけてたどり着いたのは、再現ではなく、「今の台所で作れる故郷の味」だった。相談者は大喜びで、その友人がまた別の相談を持ってきた。
研究会の小さな厨房は、少しずつ人の出入りのある場所になっていった。
認可の前に、一度だけ「試食会」と称して、寮の仲間を招いた夜があった。アデルは招かれていないのに現れ、無言でスープを一口含み、帰り際に小さな紙を置いていった。『食器の洗浄と保管の手順が曖昧です。認可の前に、明文化を推奨します』。苦情の形をした、参加表明だった。ミレイユは笑って言った。「あの人、もう仲間ですね」
学期の半ばには、最初の予算が底をつきかけた。ミレイユの提案で、温室で増やしすぎた香辛植物の苗と乾燥葉を、学府の市に小さく出すことになった。研究会の初めての「稼ぎ」だった。金額は小さかったが、意味は大きかった。申請と補助だけに頼らない、自分たちの財布を持つこと。それもまた、抜けても壊れない仕組みの一部だった。
掃除の終わった日、リゼットは一人、厨房の真ん中に立ってみた。窓からの光。整えられた竈。壁際には、故郷から持ってきた調合箱。
ここは病室ではない。誰かに用意された場所でもない。自分の申請で借りて、仲間と掃除して、作った場所だ。
帰り際、ミレイユが言った。
「会長、来週の仕入れ、苗のほうが安い案、通しときましたよ」
「……ありがとう。でも、その『会長』というのは」
「設立者が会長です。当たり前でしょう」
リゼットは笑った。会長。十九歳にして、初めて自分の肩書きを持った気がした。
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