魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第八章 セイラン学府


王都の匂いは、石と、雨と、大勢の人の生活だった。
馬車の窓から見える景色は、辺境とはまるで違った。屋根が連なり、市場が騒ぎ、魔道具の明かりが昼から灯っている。リゼットは窓に額を寄せ、匂いを一つずつ数えた。故郷を発って五日。長旅で疲れてはいたが、不思議と熱は出なかった。週の途中で一度、宿で供給を受けたおかげもある。準備と計画が、身体を守ってくれるのだと、旅の中で実感した。
王立セイラン学府は、王都の北の丘にあった。白い石の講堂、古い図書館、そして敷地の端に、大きな温室。
入学式では、彼女は嫌でも目立った。
「辺境侯のご令嬢で」「四属性すべてを」「あの事故で領を救った」
囁きは波のように広がった。視線は好意と好奇心と、値踏みの混ざったものだった。リゼットの住まいは、特別配慮として寮ではなく医務棟に近い小棟が充てられた。専属医として随行したクロードは学府の医務室に詰め、護衛のガスパールは正門詰所に席を持つことになった。侍女も同行している。
贅沢な隔離だ、と誰かが言ったのを、リゼットは聞いた。
小棟の最初の夜、彼女はなかなか眠れなかった。知らない建物の匂い。遠い鐘の音。荷物を開けると、衣類の間から母の忍ばせた乾燥花の香りがした。故郷の庭の匂いだった。彼女はそれを枕元に置き、香り帳に書いた。『初日の夜。知らない匂いの中で、知っている匂いが一つあると、眠れる』
最初の授業の日、ガスパールは講堂の入口で立ち止まった。
「ここからは、生徒のみだそうです」
護衛としてはいつも彼女の後ろにいた青年が、初めて置いていかれる側になった。彼は少し困った顔をして、それから剣の柄から手を離した。
「……終わる頃に、迎えに来ます」
「待っていなくていいのですよ」
「待つのは、仕事です」
入学の手続きの窓口では、事務の学生が、彼女の特別配慮の書類を、淡々と処理した。好奇の目も、過剰な気遣いもない手つきだった。返される書類の束には、医務棟への一番近い道順を書いた、小さな地図が挟まっていた。何も言わずに、必要なものだけを足す。その学生の名を、彼女はまだ知らなかった。後に研究会で再会する、アデルだった。
講堂の中では、魔法設備の講義が始まっていた。前の席の青年が、壊れた魔力灯の部品を器用に分解している。講師に呼ばれて彼が答えた答えは実務的で、リゼットは思わず聞き入った。休み時間に、その青年――セドリックが声をかけてきた。
「ヴァルディエさん、さっきの配線図、どこが気になりました?」
「……あの、部品のほうばかり見ていて」
「いいんですよ、設備は部品から入るのが正解で」
彼は辺境令嬢にも四属性にも、あまり興味がなさそうだった。それが、ひどく新鮮で、嬉しかった。
別の日、植物学の講義では、講師が辺境の民間療法を「迷信の類」と切り捨てた。リゼットは、祖母の代から伝わる発熱時の煎じ方を思い出し、反論したい気持ちと、目立ちたくない気持ちの間で、手元の頁を強く押さえた。休み時間、隣の席の学生が小声で聞いてきた。「あの煎じ方、うちの祖母もやってました。……本当は、効くんですよね」。彼女は頷いた。学問の外に追いやられた知識にも、持ち主がいる。その小さな共感が、研究会の最初の種の一つになった。
その日の夕食は、学府の食堂で取った。大きな食堂、並ぶ長机、行き交う生徒たち。その賑やかさに圧倒されながら、リゼットはスープを一口含んで、手が止まった。悪くない。けれど、香りが平らだった。塩と熱だけがあって、奥行きがない。
彼女は人目を忍んで、携帯用の小さな瓶――調合箱から移した香芹と塩の調合――を、ほんのひとつまみ落とした。隣の席の生徒が、不思議そうにこちらを見た。
「……今の、何ですか。急に、香りが」
「故郷の、調合です。よければ、少し」
その生徒は遠慮がちに自分の椀にも落とし、一口飲んで、目を見開いた。
「あの、これ、売っては――いえ、作り方を教えてはもらえませんか。私の町では、もっと酸っぱい味付けで」
リゼットは少し驚いて、それから微笑んだ。辺境の病室で始めたことが、王都の食堂でも、ちゃんと誰かに届く。
帰り道、ガスパールはきっかり講義の終わる時刻に、入口に立っていた。リゼットは笑って言った。
「本当に待っていたのですね」
「仕事です」
けれど彼の手には、途中の売店で買ったらしい、温かい茶の包みがあった。距離の取り方は、彼もまだ探している途中だった。
その夜の香り帳には、新しい名前が三つ増えていた。設備の青年。窓口の学生。食堂の隣の席の生徒。故郷では、名前の増えることの少なかった帳面だった。王都の一日は、彼女の世界に、人の名前を足していく日でもあった。
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