魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第十一章 相談・島の発酵食
騒ぎになった相談もある。南の島出身の学生ミナミが、故郷の発酵した魚の調味料を寮の厨房で開けたとき、廊下中に匂いが広がり、他の学生から苦情が出たのだ。
「あの匂いは、無理だ」
ミナミは瓶を抱えて俯いた。故郷では、その匂いは「美味しくなる途中」の匂いなのだという。
苦情は寮の管理係を通じて、正式な形でも届いた。リゼットはまず、その場で瓶を開け直し、自分で深く嗅いだ。表層の強い刺激。その下の、甘さ。さらに下の、旨味の重さ。発酵とは、匂いが層になって熟れる過程だった。
「発酵の匂いは、最初の一層だけで判断すると、間違えます。料理になれば、層がほどけるんです」
そう言って、彼女はその日のうちに試食会の企画書を寮の掲示板に貼った。
試食会の前に、リゼットはミナミの部屋で、その調味料の「正しい食べ方」を教わった。温かい飯に、ほんの数滴。柑橘を絞って、よく混ぜる。匂いは飯の熱でほどけ、強い刺激の向こうから、海の旨味が立ってきた。
「島では、これがご馳走なんです」とミナミは言った。「母が毎月送ってくれる。……寮では一人で、窓を開けて食べてました。匂うから」
故郷の味を、隠れて食べる。その寂しさを聞いて、リゼットの決意は固まった。この試食会は、味の説明会ではない。食卓の場所を取り戻す会なのだ。
リゼットは、匂いを消す調合はしない、と言った。消すのは、その食文化そのものを消すことになるからだ。代わりに提案したのは、少量を柑橘の皮と合わせて供する試食会だった。匂いの強いものは、単体で嗅ぐな。食卓の文脈で嗅げ。
試食会の開催には、アデルの用意した届出が効いた。材料の開示、試食は任意であること、体調への配慮の手順。文句を言う側の心配を、先に紙の上で引き受ける形だった。「匂いの話の前に、手続きの話です。手続きがあれば、話し合いができます」
試食会では、半分が顔をしかめ、半分が「意外といける」と言った。全員を納得させる結果ではなかった。けれどミナミは、「匂いを隠さずに、出せたのが初めてです」と笑った。
隅の席では、寮の管理人が変装もせずに座り、一椀を最後まで食べていた。彼は何も言わずに帰ったが、後日の発酵棚の認可の速さには、その一椀が効いていたのだと、アデルは睨んでいた。「説得は、書類の前にも、食卓でも起きるんです」
――分かり合えない部分は残る。残ったままで、同じ食卓に着く方法を探す。それも研究会の仕事になった。
試食会から数日後、苦情を出した学生の一人が、ミナミの部屋を訪ねたという。詫びを言いに来たのではなかった。「この間は、飯と一緒だと、食えた。……もう一度、かけてみてくれ」。ミナミは飯に調味料をかけ、柑橘を絞った。彼は黙って完食し、「強いな。でも、飯の味だ」と言った。全面の和解ではなかった。けれど、同じ食卓への、小さな復帰だった。
一月後、寮の台所に小さな棚ができた。発酵棚。蓋のある壺の置き場、銘柄の札、週一度の見回り。管理人の発案で、学生課が正式に認めたという。文句は、仕組みに変わった。ミナミは棚の最初の利用者として、札に名前を書いた。「ここなら、堂々と置けます」
やがて、棚には二人目の利用者が現れた。別の島出身の学生で、豆を発酵させた調味料の壺だった。出自の違う二つの壺が、棚に並んだ。「島の数だけ、発酵がありますね」とミナミは笑った。棚はもう、彼女一人の避難場所ではなく、寮の小さな「発酵の場所」になっていた。
棚の利用の決まりは、ミナミ自身が下書きを書いた。リゼットが手を入れたのは、字の整え方だけだった。「決まりは、使う人が書くのが一番です」。文句から生まれた棚の規則は、そうして当事者の字で、寮の壁に貼られた。
その後、ミナミの故郷から新しい壺が届いた。母の手紙には、こうあった。『寮の皆さんにも、食べてもらってください』。隠れて食べていた味が、故郷の母公認で、食卓に出る味になった。ミナミは次の試食の日を、自分の字で掲示板に書いた。
ミナミは、発酵の日誌もつけ始めた。開けた日、匂いの層の変化、誰が何と言ったか。「記録にすると、匂いが怖くなくなります。……層が、見えるから」。聞くことと記録することは、研究会の外へも、少しずつ広がっていた。
その日誌は、程なく別の寮の学生に貸し出された。南の島とは違う島の出身で、自分の故郷の発酵食を調べたいのだという。ミナミは貸すにあたって、一つだけ約束をさせた。「匂いの感想は、借りた人の字で、足してください」。日誌は、持ち主の違う感想を抱えて、寮と寮のあいだを回り始めた。