魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第十二章 相談・亡き妻の味


植物学の老教授ロッシュが相談に来た日、研究会の面々は少し緊張した。用件は、亡き妻のスープの味だった。
「再現はしません」とリゼットは最初に言った。「でも、お話は聞かせてください。奥様は、どんなときに、そのスープを」
長い聞き取りだった。若い頃の食卓。下宿の小さな台所で、妻が給料日のたびに作ったという。節目の祝い。子が産まれた年には、特別に肉が入った。教授が病気をした年の冬。妻は何も言わず、塩を落とし、その代わりに香りの高い根菜を増やした。
教授の話には、いつも一本の木の匙が登場した。味見のたびに妻が使っていた、長年で薄くなった匙だという。「あの人は、匙で味を聞いていたんです。私は植物を標本で聞くが、あの人は、食卓を匙で聞いていた」。聞き取りの中で、その匙は、故人の人となりそのもののように、だんだん輪郭を持っていった。
「妻は、私の身体の変化に、私より先に気づいていたんですな」
教授は、その日、妻の書き残した料理の控えを持ってきていた。薄い帳面で、分量は「適量」と「ひとつまみ」ばかり。だが欄外の走り書きが、リゼットの目を止めた。『夫、咳。塩を落とす』『薬の後は、香りの強いものを』。分量の記録の隙間に、相手の身体の記録が挟まっていた。
彼女は、自分の香り帳の『相手のこと』の頁を思い出した。記録の仕方は違っても、見つめる先は同じだった。食卓の向こうの人の、今日の様子。老教授の妻は、半世紀前に、同じことをしていたのだ。
話の中で、リゼットは一つのことに気づいた。教授の病気の後、妻は塩を落とし、香りの立て方を変えている。彼が「あの味」として覚えているのは、若い頃の、塩の立った版なのだ。そして彼が今、本当に恋しいのは、たぶん、その「先に気づいてくれる人」の存在そのものだった。
作る前に、リゼットはいつもの質問をした。今の薬のこと、医師から言われている塩の上限のこと。老教授は眼鏡の奥で目を丸くした。「……聞かれる側になるとは、思わなかったな」。だが彼は、きちんと答えた。聞く癖は、相手が教授でも、同じように働いた。
彼女が作ったのは、そのどちらでもなかった。今の教授の身体に合わせ、塩は控え、香りだけで満足感を出す、今の食卓のための一椀だった。
調理は研究会の面々で分けた。出汁はミレイユ、根菜の下ごしらえは後輩たち。リゼットは最後の香りの重ねだけを担った。根菜を先に焼いて甘みを引き、塩の代わりに、香りの高い葉を熱で開いて乗せる。厨房に満ちていく匂いに、待っていた教授が、妻の帳面をそっと開いたり閉じたりしていた。思い出の味の再現ではない。今の食卓への、翻訳だった。
教授はゆっくりと食べ終え、眼鏡を外した。
「……妻が生きていたら、今の私には、こう作ったでしょうね」
帰り際、教授は言った。標本室の古い植物標本を、研究に使うなら貸し出そう、と。その標本の蓄積が、やがて彼女の大きな発見の土台になる。
一週間後、教授から短い文が届いた。妻の古い友人宅で、あのスープを作ったのだという。友人は一口含んで泣き、「あの人の味が、帰ってきた」と言ったそうだ。
『味は、独り占めするものではないのですね。君に相談して、よかった』
この相談の噂は、学府の職員たちのあいだにも広がった。程なく、寮の料理人の一人が、亡き夫の漬物の味を、孫の来訪までに再現したいと、厨房の戸を叩いた。相談の輪は、学生の外側へも広がり始めていた。
標本室へ案内された日、リゼットは古い棚の奥で、辺境産の標本瓶を見つけた。採取は今から五十年ほど前。緋椒の粒は色褪せていたが、嗅いでみると、香りの底は澄んでいた。重さも、澱みもない。
「昔の辺境は、香りのいい土地でな」とロッシュは言った。「標本は、正直ですよ」
その日のことは、香り帳の片隅に、小さく記録された。その時はまだ、ただの感想だった。
それから月に一度、ロッシュは研究会に顔を出すようになった。相談者としてではなく、標本の分類の講義をする側としてだった。「恩返しは、知識の形が一番長持ちしますからな」。老教授の講義は、やがて研究会の定例になった。相談は一方通行ではなく、巡るものだということを、彼女はその背中からも学んでいた。
ロッシュは、妻の料理帳の欄外の書き込みだけは、写しを取ることを許した。アデルが丁寧に写し取り、相談の記録の「参考例・第一号」として綴じた。あわせて、相談の記録には本名を残さない、という約束が、この件から研究会の決まりになった。記録は残し、人を晒さない。その線引きも、ここで生まれた。
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