魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第十四章 特別扱いという言葉
アデルは、学府でいちばん努力する生徒だった。
地方の小さな貴族の家に生まれ、成績優秀者として名を知られ、どの授業でも最前列に座る。リゼットと同じ班で実習をした日、彼女の作業の正確さは際立っていた。だからこそ、その日の出来事は刺さった。
共同実習は、四人で一つの大きな術式を組み上げるものだった。リゼットの担当は調律――彼女にしかできない部分だった。けれど開始から一刻ほどで、約束の時間が来た。叔父に定められた活動の上限。医務棟へ戻らなければならない。
「すみません、私はここで抜けます。あとの手順は、札に書いて――」
班は、残りの三人で実習を終えた。結果は合格だった。けれど廊下で、アデルが待っていた。
「ヴァルディエさん」
凛とした声だった。
「配慮を受けるなとは言いません。身体のことは、私には分かりませんから。でも、あなたが抜けた分は、誰かが働いています。今日の調律の穴は、私が二重に手順を踏んで埋めました。そのことを、忘れないでください」
言い逃れは、できなかった。事実だからだ。
「……ごめんなさい。本当に、ありがとうございました」
「謝ってほしいのではありません」
アデルは踵を返した。
数日後、図書館で、二人は同じ参考書を取り合った。貸出順の札ではアデルが先だったが、彼女が本を開いた場所に、リゼットの書き置き――目次の写しに、相談記録の参照頁が几帳面に対応付けられていた。アデルはしばらく黙ってそれを見ていた。
「……あなた、抜けた分の穴を、こうやって埋め返しているの」
「埋め返せているかは、分かりません。でも、記録は残せます。次に抜けるとき、誰が困るか分かるように」
アデルは本を三日で返した。返却棚に置く際、短く言った。「読み終わりましたから」。それが歩み寄りの全部だったが、敵意ではなかった。敵意ではない、ということは、図書館の静けさの中で、はっきり聞き取れた。
その日から、胸の奥に小さな棘が残った。学府では彼女の住まいの小棟や、医務棟へ出入りするクロードの姿が、別の種類の囁きも呼んでいた。「従兄で、主治医で、毎週決まって」――聞こえた断片だけで十分だった。誰も悪意では言っていない。それでも、積もれば重かった。
*
その週末、研究会の試作が重なり、リゼットはクロードに言った。
「明日の供給、一日ずらしてもらえませんか。試作の仕上げが、どうしても明日で」
「駄目だ」
即答だった。
「クロード」
「魔力の残量は、私が見ている。香りが薄くなり始めているはずだ。違うか」
違わなかった。実際、ここ二日、朝の香芹の香りが遠かった。でも――。
「あなたはいつもそうやって、患者の私にだけ命令します。私の予定も、私の仕事も聞こうとしない」
「仕事で命を落としたら、元も子もない」
「では私は、ずっと『落とさないこと』だけを考えて生きればいいのですか。学府まで来て、それでは何も――」
声が、震えた。クロードは言いかけて、口を閉ざした。長い沈黙のあと、彼は医官の声ではなく、もっと低い声で言った。
「……あの日の、脈が消えかけた感覚を、私はまだ覚えている。指先で、君が遠くなっていく感覚を。だから、怖いんだ。一日の遅れが、あの日に繋がっていないと、どうしても思えない」
リゼットは息を呑んだ。
怖い、などと。この人が、そんな言葉を口にするとは。
「……ごめんなさい。でも、私も怖いのです。止められることばかりの人生に、戻るのが」
二人は、取り決めの文書を机に広げた。延期を求める権利は彼女にあり、医学的理由で断る権利は彼にある。どちらも、あの日、二人で決めたことだった。
結論は、こうなった。供給は今夜に前倒しする。代わりに明日の午前、彼女は完全に休む。試作の仕上げは、取り決めの札と一緒に、ミレイユたちに託す。
「……託す、練習ですね」
「ああ。互いに」
クロードが微かに笑ったのを、リゼットは初めて見た気がした。
翌週、医務室の予定板に、小さな木の駒が二つ増えていた。彼女の名と、彼の名。供給の日は、どちらの側からでも、駒をずらして延期を申し出られる。気分や体調の言葉にする前に、手が先に言える仕掛けだった。
「言葉にすると、大事になるからな」
彼はそう言って、自分の駒を練習に一度、ずらして見せた。延期を求める練習まで、二人でやるのだった。
その頃から、ガスパールの「待ち方」が変わってきた。講義の間、彼は詰所で学府の周辺地図を覚え、終わりの時刻には茶と、その日の彼女の予定を書いた小さな紙を置いて、姿を見せない日も出てきた。距離は、冷たさではなかった。相手の場所を空けることも、護衛の仕事だと、彼は覚えつつあった。
*
数日後、廊下で香り帳を落とした。
拾って届けてくれたのは、アデルだった。帳面は紐で閉じられていたが、端から覗く頁の几帳面な記録を、彼女は見てしまったらしい。
「……相談の記録、費用、失敗の分量まで。全部、書いているのですね」
「忘れるので。書かないと、次に活かせないから」
アデルはしばらく黙って、帳面を両手で返した。
「この前の言い方、過ぎました。謝ります。……でも、全部は撤回しません。あなたが抜ける分、誰かが働くのは事実です」
「ええ。だから、抜けても壊れないやり方を、覚えたいのです」
アデルは少し驚いた顔をして、それから、ほんの少しだけ笑った。
「……なら、見ています。その『やり方』を」