魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第十六章 抱え込み


学園祭への出店が決まったのは、初夏だった。
研究会の店は、香辛料の焼き菓子と、その場で好みを聞いて仕上げる温かいスープ、そして小さな「故郷の味相談」。準備の計画を立てる段になって、リゼットは自然と、全部を引き受けていた。
献立は私が考える。調合は私しかできない。費用の計算は、ミレイユに任せると二度手間になる。交代表は私が全体を見ているから。看板の文面も、相談の対応表も――。
前世の店では、全部を一人でやっていた。仕入れも、調合も、接客も、帳面も。あの店は小さくて、自分が止まれば店が止まった。だから「全部できる」ことが、店主の証しだった。
「会長」とミレイユが言った。「今の分量、原価が合いません。それと、あなたの担当、多すぎます。数えました、九つあります」
ミレイユは、九つの担当に、それぞれの所要時間まで書き添えて見せた。合計は、祭りの準備期間に彼女が無理なく動ける時間の、二倍を超えていた。「数えると、見えるでしょう。抱え込みは、気合いの問題じゃありません。算数の問題です」。数字にされると、言い訳の余地はなかった。
「大丈夫です、祭りまでまだ日にちが――」
「そういう人から倒れるんですよ」
セドリックが魔力竈の保温改造を申し出たのも、アデルが「交代表くらい、私が作ります」と言ったのも、リゼットは「ありがとう、でも様子を見てから」と保留にした。頼むより、自分でやるほうが速かった。速いほうが、皆の迷惑にならないと思っていた。
ミレイユは一度、はっきりと止めた。
「会長、このままだと原価計算と当日の会計が重なります。会計は私にください」
「祭りの週にまとめてやるから、大丈夫」
「……分かりました。でも、記録だけは残してくださいね。何がどこまで終わっているか」
皮肉なことに、その記録の習慣が、後に店を救うことになる。抱え込みの最中でも、彼女の手は、皆が引き継げる形で仕事を残していたのだ。
異変は、香りから来た。
朝、調合箱を開けたとき、香芹の香りが遠い。――気のせいにした。試作のスープに緋椒を落としたとき、辛い匂いが立たない。鼻を近づけても、熱だけがあって、香りがない。段階の、一つ目。それは分かっていた。けれど認めたら、準備が止まる。
祭りの前日、厨房で最後の仕込みをしているとき、床が静かに傾いた。
ガスパールの腕が、倒れる前に彼女を支えたという。目覚めたのは医務室で、天井と、クロードの静かな顔があった。
後で知ったことだが、ガスパールの報告書は、その日のうちに提出されていた。時刻、場所、症状。そして一行、『朝の試作時より、香りの薄れの自覚あり。本人、申告せず』。彼にだけ、彼女は朝の異変を漏らしていたのだ。記録は、正直だった。彼女はその報告書を読み、自分の「遅れ」が紙の上に残っていることを、静かに受け止めた。
「……祭りは」
「明日だ。君は、昼まで絶対安静」
怒鳴りはしなかった。それが、かえって刺さった。
「ごめんなさい、皆さんに……。店は、もう――」
言葉は最後まで続かなかった。私が止まったら、店も止まる。あの店と同じに。そう言おうとしたとき、病室の戸が開いて、研究会の面々が遠慮がちに入ってきた。先頭はミレイユで、手には大きな紙があった。
「改訂版の計画表です。まず献立は一品削りました。原価が合わないので。保温はセドリックの改造竈で持ちます。交代表はアデルさんが作りました。相談コーナーは午前だけにして、午後は試食のみ」
「え……」
「会長の調合は、札が全部残ってるでしょう」とセドリックが言った。「あれ見れば、僕らでも仕上げられます。実際、今日の仕込み、もう半分終わってます」
アデルが、紙の端を指で押さえた。
「見ていると言いましたから。……あなたの『抜けても壊れないやり方』、まだ完成はしていませんけど、材料は揃っていたのですね。札と、記録と、相談の表が。あとは、それを皆で使うだけでした」
リゼットは、紙の上の名前の並びを見た。九つあった自分の担当が、人の名前で置き換わっている。空欄は、一つもなかった。
ああ、と彼女は思った。
全部できることと、自分の仕事を持つことは、同じではなかったのだ。私の仕事は、調合を考え、仕組みを残すこと。抱え込むことは、仕事熱心ですらなかった。皆が働く場所を、私が一人で塞いでいただけだ。
「……明日、私は昼から、短い時間だけ店に立ちます。それまでは、皆さんに任せます」
言うのに、少し勇気が要った。けれど言えた。
翌日の正午、医務室を出るとき、クロードは引き出しから新しい手袋を取り出して、彼女に渡した。
「医務の支給品だ。今日の店は、短時間でも外気に当たる。冷えは、お前の敵だ。……落とすな」
「はい。ありがとうございます」
手袋は、彼女の手には少し大きかった。誰の予備だったのかは、聞かなかった。聞かないことも、彼女なりの礼儀だった。その少しの大きさを感じながら歩く帰り道、指先だけは、不思議と冷たくなかった。
その夜、窓の向こうで、厨房の明かりが遅くまで灯っていた。自分のいない場所で、自分の店の準備が進んでいる。その明かりは、寂しくなくて、温かかった。
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