魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第二十一章 警告した男
引退した運用術者ガルスを訪ねたのは、ユリウスの紹介だった。王都の外れで果樹園を営む彼は、二十年前、辺境方面の複数の節で運用に就いていた。
「戻りの細りを、最初に数値で言ったのは俺だ」
果樹園の木には、一本ごとに小さな札が下がっていた。品種と、植えた年と、台木の出どころ。彼は畑でも記録の人だった。挨拶の後、ガルスはまず、彼女の用向きを確かめた。「写しを見せる前に聞く。あんたは、それを燃やす側か、使う側か」
「使う側です。……大勢に、読ませる側です」
彼は、それを聞いてから、土の試験を始めたのだった。
ガルスはしばらく彼女を見て、それから庭の隅の土を三つの皿に盛って戻ってきた。
「鼻のいいお嬢さんだそうだ。当ててみなさい。どれが、澱んだ節の土だ」
リゼットは一つずつ嗅いだ。一つは雨の後の畑。一つは乾いた畑。そして一つは、表面の乾きの下に、あの甘い澱みを隠していた。
「これです。……表面は、誤魔化せるんですね」
「ああ。記録も同じだ」
ガルスは頷いて、初めて笑った。彼はそう言って、古い箱を持ってきた。中には、報告書の写しが入っていた。当時、還流の流量の低下と局所的な澱みの増加を、彼は何度も上申していた。戻ってきたのは、「様子を見よ」の一文だけだった。
写しの束のあいだには、返信の控えも挟まっていた。判はどれも同じで、文面は三種類しかなかった。一度だけ、彼は休暇を取って王都へ出向き、院の前で三日待ったという。面会は、叶わなかった。「門前で待つ三日間はな、長いぞ。……でも、その三日で決めた。表の記録が死ぬなら、裏で写しを残す、と」
束の中ほどには、彼自身の手で描いた流れの図もあった。当時の流量の矢印と、細くなっていく還流の、年を追った変遷。「字より、図のほうが早いこともある。……見りゃ分かる、と思ったんだがな」。彼の頭の中では、二十年前から、網の全体が見えていたのだ。
「俺は田舎に帰った。でも写しは残した。――記録はね、お嬢さん。残しても、読む者がいなければ、ただの紙だ」
リゼットは震える手で写しを受けた。二十年前の日付。自分の事故よりずっと前に、誰かが同じ澱みを見ていた。
写しの字は、端正な女の字だった。ガルスの妻が、台所から顔を出して言った。
「清書は、私の仕事でした。あの人の字は、誰にも読めませんからね。……原本が駄目になっても、写しが二通あれば、どこかで生き残る。そう二人で決めたんです」
記録を残したのは、一人の意地ではなかった。夫婦二人の、二十年の仕事だったのだ。
「読みます。私が。そして、大勢に読ませます」
果樹園の剪定の枝は、隅に年ごとに束ねてあった。退職した年から、一束ずつ。「年輪の代わりだ。……この束の頃は、まだ写しの行き先がなかった」。年月の数え方にも、彼の流儀があった。枯れた木の話の前に、その束の列が、二十年という時間の長さを見せていた。
果樹園の奥には、根元から枯れた古い木が一本、そのまま立っていた。ガルスはそれを指した。
「それも、巡りの止まった木だ。下の畑は、戻りの水を止められて、三年でこうなった。……俺は二十年、あの写しを燃やそうとして、燃やせなかった。読む者が、いつか来ると思ったからだ」
彼の妻が茶を持ってきて、「この人はね、意地だけで生きてきました」と笑った。写しは、意地の形だったのだ。
茶請けの干し果実を勧めながら、妻はぽつりと言った。「息子もな、遠くの節で術者をやっとります。あの子の当直も、一人で二節分だそうで」。運用の家系の食卓でも、人の細りは進んでいた。ガルスの二十年は、一家の問題であると同時に、国中の現場の縮図だった。
果樹園の帰り際、ガルスは実の入った袋を持たせた。「果樹はね、根に返さなきゃいけないものを、枝先に溜めると枯れるんだ。人間の作った網も、同じだ」
「約束が一つ、あります」とリゼットは門のところで言った。「この写しが、院の正式な記録に載ったら、その番号を、必ずお知らせします。……あなたの二十年は、番号のある記録になります」
ガルスは目を細めた。「番号、か。……そいつは、悪くない」
後日、写しの目録化は、ユリウスが正式に担った。彼は果樹園を再訪し、写しの一通ごとに、年代と宛先と、返信の有無を確かめる作業を申し出た。ガルスは最初、渋い顔をしたが、作業の丁寧さを見て、やがて箱の鍵を預けたという。「読む者が来た、どころじゃない。書き継ぐ者が、来たんだ」。記録は、そうして次の手に渡った。