魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第二十四章 言えないこと
その少し前、二人は上機嫌でさえあった。
供給の記録を付け終えた夜更け、リゼットが出した新作の調合茶を、クロードが珍しく二杯飲んだ。
「研究員への誘いが、また来ているそうですね。叔父様の手紙にありました」
「……ああ。供給の仕組みを、医学として体系化する話だ。昔の私なら、飛びついていた」
「今は?」
「今は、ここに患者がいる」
彼はそう言って笑った。その笑い方が、リゼットには嬉しかった。この人は、義務だけでここにいるのではないのかもしれない。そう思った矢先のことだった。
きっかけは、机の上の文書だった。
供給の記録を取りに医務室を訪れたリゼットは、クロードが席を外した隙に、開かれたままの書類を見てしまった。――見るつもりはなかった。ただ、標題が目に入ったのだ。
『専属医交代に関する推薦状』
宛先は学府の医務長で、添えられた叔父の手紙には、装置の安定を機に、彼の王都医務院への研究員としての復帰を促す文面があった。彼の将来の話だった。ずっと後ろに置かれていた、彼の将来の。
その晩、供給の前に、リゼットは聞いた。
「交代の話、本当ですか」
クロードは少し黙って、頷いた。嘘をつかない人だった。
「段階Bが安定すれば、医療としては、チームで回せるようになる。……君が将来を選ぶためにも、私は一歩引くべきだと、考えている」
将来を選ぶために。私のため。
言葉は正しかった。正しいのに、胸の真ん中が冷えた。――ああ、この人は、ずっとこうだった。私の重荷になりたくなくて、自分の気持ちはいつも、義務の後ろに隠すのだ。
「分かりました」
自分の声が、ひどく平らだった。
「今まで、ありがとうございました。交代の準備、私からも協力します」
「リゼット」
「供給を、お願いします。明日の予定が早いので」
その夜の供給は、取り決めの通りに行われた。時刻、記録、確認。何ひとつ間違っていなかった。彼の手は温かく、魔力は静かに満ちた。けれど二人は、ほとんど口をきかなかった。
中ほどで一度だけ、彼の指が、ほんの僅かに迷うように止まった。謝罪なのか、躊躇なのか。リゼットは目を閉じたまま、何も言わなかった。言えば、その迷いが「事件」になってしまう。記録には残らない種類の出来事を、二人はそれぞれの側で、静かに抱えて過ごした。
終わって、彼が帰ったあと、リゼットは長く天井を見ていた。
選べる方法が増えるのは、いいことだったはずだ。彼に自由が戻るのも、いいことだったはずだ。
なのに、自由という言葉が、こんなに寂しい音で聞こえるのは、なぜだろう。
眠れないまま、彼女は香り帳の最後の頁に、出さない手紙の下書きをした。『推薦状のこと、聞きました。寂しいと書くと、あなたは困るでしょう。だから書きません。でも、記録としてだけ――』。そこで筆が止まった。記録として残すことさえ、彼への重さになる気がした。彼女はその頁に、何も書かれていない新しい頁を重ねて、帳面を閉じた。
翌日、廊下で行き会ったガスパールが、彼女の顔を見て言った。
「医者というのは、患者を手放すのが一番下手な生き物らしいですよ。……うちの医官殿も、例に漏れず」
何をどこまで知っているのか、彼は言わなかった。ただ、その一言で、彼女の胸の冷えは、少しだけ位置を変えた。
答えは、分かっていた。分かりすぎていて、口に出せなかった。出せば、彼は断りづらくなる。供給を受ける身で、彼の将来を縛る言葉だけは、言ってはいけない気がした。
同じ夜、クロードは医務室で、推薦状の続きを書けずにいた。
彼女の将来のために引くのだ。それは本当だった。だが同時に彼は知っていた。自分の願いを告げれば、彼女は断りづらくなる。恩と必要に縛られた「はい」は、本人の選択ではない。
だから、言えない。言う資格が、自分にはないと思っていた。
数日後の供給の日、リゼットは彼の袖から、眠れていない人の匂いを嗅ぎ取った。墨と、冷めた茶と、疲れの匂い。彼女は何も言わず、翌週の予定表の駒を、自分から半日ずらした。医務の都合ではなく、彼に眠る時間を作るための、半日だった。
「……駒が、動いているな」
「練習です。互いに、でしたよね」
クロードはしばらく駒を見て、小さく息を吐いた。休むことを許されるのは、患者だけではなかった。
その日の立会記録を、ガスパールは普段通りの書式で提出した。ただ一行、いつもは書かないものが足されていた。『天気、曇り』。事実しか書かない護衛が、その日だけ、空の様子を記録した。本人たちは何も言わなかったが、傍らの記録は、空気の重さを正直に写していた。