魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第二十九章 村の請願


還流節の村から、代表団が王都へ来た。村の長老と、数名の村人、そして――長老の孫娘、イナだった。
出発の前夜、村の集会場では署名が集められた。字の書けない年寄りは、判の代わりに親指の印を押した。一人の子どもが、イナに頼んだ。「あたしの名前も、書いて。大人になったら、今度は自分で書くから」。請願書の束は、村の全戸と、その子の未来の分まで、背負って運ばれることになった。
道中の馬車の中で、イナは請願書の束を、ずっと膝の上に抱えていた。荷台に置けば楽なのに、と誰かが言っても、首を振った。「皆の名前が入ってます。荷物とは、違います」。三日揺られて、腕が痺れても、彼女は束を降ろさなかった。村の総意は、そうして運ばれてきた。
長老は前夜、宿で何度も挨拶の文句を練習したという。「偉い人たちの前では、短く言うのが礼儀だそうですな」。イナは、王都の馬車の多さに目を回しながらも、学府の門では背筋を伸ばした。「村の代表が、うろたえたら、話が小さく見えますから」
宿の近くの安い食堂では、長老が汁物を一口すすって、小さな声で言った。「王都の飯は、上品だが、薄いですな」。イナが付け加えた。「水の味が、違うんです。うちの井戸のほうが、甘い」。故郷の水の甘さは、いまや澱みの混じる味だったはずなのに、その言葉には曇りがなかった。守りたいものの輪郭は、旅の先でこそ、はっきりするのだった。
請願書は、村の全戸の署名を集めたものだった。内容は、避難の実施と、土地の記録の保全、そして「自分たちの村のことを、村抜きで決めないでほしい」という一文だった。
窓口にたどり着くまでにも、長い待ち時間があった。院の待合で二時間。長老は居眠りをし、イナはアデルの書いた挨拶の読み方の控えを、声に出さずに繰り返した。大きな機関の時間の流れは、村のそれとは違った。けれど待つことも、請願の一部だった。その二時間を、代表団は誰一人、席を立たずに待った。
受理の窓口では、書式の不備を理由に一度、突き返されかけた。日付の書き方が、院の様式と違ったのだ。その場でアデルが様式に合わせて書き直し、長老が改めて署名した。形式は、門前払いの道具にも、橋渡しの道具にもなる。アデルは小さく言った。「記録の仕事は、こういうところで役に立つんです」
イナは請願書の束を抱え、緊張した面持ちで、リゼットの前に立った。
「あの……私は、字は読めます。村の皆の分も、書けます。記録なら、私が手伝えます」
彼女の手は、厨房の仕事で慣れた手だった。紙の束を落とさないよう、大事に抱える仕草を見て、リゼットは微笑んだ。
「お願いします。記録は、誰か一人のものにしないほうがいい。あなたの手が、要ります」
請願書は巡環院に受理された。小さな、けれど確かな一歩だった。
受理の控えに受付の印が押されるのを、長老は身を乗り出して見ていた。「これが、証拠ですな」。帰り際、廊下の端で、若い調査官セインが代表団の姿を静かに見送り、自分の手帳に何か書き付けていた。院の側の記録にも、この日、村の名前が残った。記録は、届ける側だけの仕事ではなかった。
帰り際、長老はアデルにも深く頭を下げた。「様式のことも、教えてくれた」。イナはその横で、真剣に言った。
「様式を覚えれば、村から直接、出せるようになりますね。……教えてください。私、記録の字も、もっと上手くなりたい」
アデルは少し驚いて、頷いた。「教えます。様式は、味方にできるんです」
帰りの馬車に乗る前、長老は文房具屋で、白紙の帳面を二冊買った。一冊は村の記録用、もう一冊はイナの練習用だった。「字はな、練習すれば上手くなる。村の字は、村の手で書く時代にせにゃならん」。イナはその帳面を、請願書の束と同じ抱え方で、大事に抱えた。
隣の村から、使者が来たのはその少し後だった。受理の控えを見に来て、自分たちの請願の書き方を教えてほしいという。応対したのは、イナだった。様式の写しを渡し、窓口で突き返されかけた話まで、正直に話した。請願の作法は、村から村へも、渡り始めていた。
後日談がある。受理の控えは、村の集会場の壁に、額に入れて掛けられたそうだ。印のある紙が一枚、壁にある。それだけで、村の話し合いの風向きは変わったという。「国は、村の名前を、受け取った」。控えは、その証拠だった。
イナとの出会いは、後の避難所での再会と、もっと先の約束へつながっていく。
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