魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第三十四章 帰郷
辺境の空気は、王都とは違った。乾いた土と、遠い山の緑と、港からの潮の気配。その懐かしさの中に、かすかな澱みが混ざっていた。故郷の匂いが、少しだけ変わってしまったことを、リゼットは馬車の中で知った。
領境の関所では、当直の兵が彼女の馬車を認めて、深く頭を下げた。事故の年から勤める古参で、還流節の警備にも就いていた男だった。「お帰りなさいませ、お嬢様。……今度は、直しに来てくださったんですな」。領の端々では、彼女の帰郷の意味は、もう共有されていた。
屋敷では、家族全員が出迎えた。父は無言で彼女の頭に手を置き、母は抱きしめ、レオンは「痩せたな」と言って笑い、アルベールはすぐさま実施本部の地図を広げようとして母に止められた。
「今日は休みなさい。仕事は、明日から山ほどあります」
休む前に一つだけ、と彼女は頼んで、還流節の祠の外まで連れて行ってもらった。十八歳のあの日は越えられなかった結界の線の、内側に立つ。祠の古い木と、清められた水の匂い。今は、線の内側が「見ているだけの場所」ではなかった。全体の図面の中で、自分の担当を持つ場所だった。
「また来ました」と彼女は小さく言った。「今度は、皆で直しに」
その夜、母が彼女の髪を梳きに来た。子どもの頃からの習慣だった。梳きながら母は言った。「あんたの部屋の花はね、あんたのいない間も、毎月替えていたの。帰ってくる場所の匂いは、切らしちゃいけないと思って」。故郷は、帰る前から、彼女の帰りを準備していたのだった。
実施本部は、還流節に近い領主家の離れに置かれた。ユリウスは納屋を記録室に変え、アルベールは土間を地図の間に変えた。離れは数日のうちに、執務の匂いのする生きた建物になっていった。翌日から、役割が動き始める。交渉と調整はアルベール。現場の統括はレオン。記録と手順の管理はユリウス。装置の責任者は、王都から合流したノエル。本人の状態管理はクロード。退避と引き継ぎの指揮はガスパール。
初日の顔合わせで、彼女は自分の撤退の条件を、最初に全員へ告げた。症状の段階と、止まる約束と、止める役目の所在。「当日、私が迷っても、この約束が優先です。……皆で決めた約束を、私一人で破ることはしません」。本番の前に、弱さを全員で共有しておく。それも彼女の、用意の一部だった。
二日目の夕方、リゼットは馬車から、斑の出た畑を見せてもらった。レオンが土を一握り、持ってきた。嗅ぐ。表面は乾いている。その下に、薄く、澱み。「畑は、正直ですね。記録の通りです」。畑の持ち主の農民――王都で水の瓶を持ってきた、あの男だった――が、馬車の脇に立っていた。「お嬢の言う通りになっとる。情けないやら、安心するやら」。自分の畑の異変が、国の記録と一致したこと。それは悪い知らせであると同時に、無視されてこなかった証拠でもあった。
還流節の村は、すでに避難が終わっていた。通過した村は静かで、井戸には蓋がされ、畑には人の姿がなかった。避難所の広場では、母が炊き出しの采配を振るっていた。研究会の面々も、厨房班として加わっている。何百人分もの食事を、交代で作り続けるのもまた、巡りを止めない仕事だった。
炊き出しの列の中で、村の娘が一人、目を引いた。王都へ請願に来ていた、長老の孫のイナだった。彼女は並ぶ村人一人ひとりの顔を見て、年寄りには汁を多めに、子どもには実を多めによそっていた。誰に言われたのでもなく、村の全員の好みと加減を覚えているのだ。
「あの子は、手が覚えているのですね」とリゼットが言うと、母は頷いた。「厨房の仕事は、あの子が一番早いそうよ」
村の長老が、リゼットの手を取った。
「お嬢様が、国と掛け合ってくれたと聞きました。ありがとうございます」
「私一人ではありません。……戻りましょう、必ず。この土地に」
還流節の祠は、十八歳のあの日と同じ場所にあった。濡れた石。若い草。リゼットは結界の線の手前に立ち、深呼吸をした。今度は、線の外に立つ理由も、線の中で無理をしない理由も、両方分かっていた。
祠守の小屋には、明かりが灯っていた。ガスパールが低く言った。「ヴェルグ殿は、今もあそこに」。十八歳のあの日、線の内側から彼女に声をかけた老術者は、引退の後も、節の傍らで暮らしていた。彼女は小屋のほうへ、一度だけ頭を下げた。挨拶は、まだ先でよかった。仕事が、終わってからで。