魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます

三 環の実



ある夕方、閉店の札を掛けようとしたとき、扉が開いた。
クロードが立っていた。
彼は今、王都の医務院の研究員として供給医療の体系化を進めながら、季節ごとに辺境の医療拠点を巡回する生活を送っていた。自分の選んだ仕事だった。今回は、還流節の村の収穫祭に合わせた巡回で、彼女の定期検診も兼ねていた。
「診察と、もう一つ、話があって来た」
その声の真剣さに、リゼットは椅子を勧めた。
診察は滞りなく終わった。数値も、供給の記録も、順調だった。クロードは帳面を閉じて、しばらく工房の棚を見ていた。各地から集まった香辛料と、彼女の調合箱が、夕日の光の中に並んでいた。
「先に、断っておくことがある」
彼は真っ直ぐに彼女を見た。
「これから言うことは、医療とは関係がない。君が断っても、医療は今の体制で続く。供給も、装置と持ち回りで回る。望むなら、私は君の医療記録への関与からも外れる。その上で、聞いてほしい」
リゼットの心臓が、大きく跳ねた。
「私は、君と生きていきたい。医官としてではなく、救った相手としてでもなく。一人の人間として、君の隣で」
何年も言えなかった言葉は、飾り気がなかった。飾り気がないからこそ、本物だった。
リゼットは、少しだけ笑った。目尻に涙が溜まっていた。
「……やっと、言ってくれました」
「すまない、遅くなった」
「いいえ。早かったら、きっと私は、必要だからだと疑っていたと思います。今だから、信じられます」
彼女は立ち上がり、彼の前に立った。守られる側の席ではなく、対等の場所に。
「私も、選びます。必要とは別に、一緒に生きてほしい。……クロード、これからも、私の隣にいてください」
婚約の話は、その夜のうちに、家族の食卓で報告された。父はしばらく黙って、それから「長かったな」とだけ言った。母は泣き笑いをし、アルベールは早速、日取りの候補を計算し始めた。
父は食後、クロードを書斎に呼んで、一つだけ言ったという。「うちの娘は、願いを計画の形にする女だ。条件交渉から入っても、驚くな」。クロードは深く頭を下げ、「承知しております。……条件は、彼女が出す前に、こちらでも用意しておきます」と答えたそうだ。その話を後から聞いて、リゼットは笑い、それから少し泣いた。
*
翌日は、還流節の村の収穫祭だった。
戻った畑で、数年ぶりに実った作物が並ぶ。その中に、長老が大切そうに持ってきた小さな籠があった。何年も実らなくなっていた在来の香辛植物――環の実が、戻ってきた土地で、初めて実を付けたのだという。
「約束でしたからな。最初の実りは、お嬢様の箱へ」
リゼットは両手で受け取り、実を一つ、そっと潰して香りを嗅いだ。澄んでいて、明るくて、流れる水のような香り。澱みは、どこにもなかった。
工房に戻り、彼女は調合箱を開けた。十一本の瓶が並び、一本だけ、空だった。少女の頃から、ずっと空けてきた場所。ノエルが名前を彫る余白だけを残した場所。
彼女は環の実を丁寧に乾かし、挽き、小瓶に詰めた。瓶を持つ手を、隣でクロードがそっと支えた。ラベルには、自分の字で書いた。
『環の実――故郷の、戻ってきた香り』
瓶は、十二本目に収まった。箱は、満ちた。けれど不思議と、終わった感じはしなかった。満ちた箱は、完成ではなく、これからの日常の道具だった。
その夜、工房の棚の一角に、クロードの湯呑みと、彼の置き傘の場所ができた。大仰な約束の代わりの、小さな場所取りだった。「ここ、私の席にしていいか」と聞く彼に、彼女は笑って頷いた。必要とは別に、とは、こういう日々の形をしていた。
帰り際、彼は調合箱のほうを見て、言った。「婚礼の旅では、その箱は、私が持つ」
「軽いんですよ」
「重さの話ではない」。彼は少し照れたように言った。「……持たせてほしい、という話だ」
少女の頃から一人で抱えてきた箱を、人に持たせる。その許可を出すことが、彼女にとっての、もう一つの返事だった。「……お願いします」
婚礼は、春と決まった。寝る前にリゼットは、子どもの頃に作った『まだ嗅いでいない香りの目録』を開いた。残りの項目は、少なくなっていた。その最後に、彼女は新しい行を書き足した。『婚礼の日の、花の匂い』。目録はもう、行けない場所の地図ではなかった。これから行く場所の、約束の形をしていた。
翌朝、工房は通常通り開いた。昼には彼女は奥で休み、イナが店番をし、夕方には巡回から戻ったクロードが、当然のように茶を淹れた。新しい客が扉を開け、故郷の味の相談を始める。
リゼットは香り帳の新しい頁を開いた。
明日も続く、小さな仕事のために。




                 【完】






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