恋の花火がきえる時。
病院の廊下を、私は夢中で走っていた。

 下駄の音が響く。
 息が苦しい。
 胸が痛い。

 それでも、止まれなかった。

「光輝……!」

 手術室の前に着くと、光輝のお母さんが立っていた。

「理紗ちゃん……!」

「光輝は?」

「もうすぐ、運ばれてくるわ」

 その言葉を聞いた瞬間、足から力が抜けそうになった。

 間に合った。

 まだ、会える。

 私は手を握りしめ、手術室の扉を見つめた。

 しばらくして、遠くからベッドの車輪が近づいてくる音が聞こえた。

 白い天井。
 点滴。
 青白い顔。

 そのベッドの上に、光輝がいた。

「光輝!」

 呼びかけると、光輝の目がゆっくり開いた。

「……理紗?」

「うん、私……!」

 ベッドのそばまで駆け寄る。

 光輝は驚いたように私を見て、それから困ったように笑った。

「来るの、早すぎるだろ」

「光輝に言われたくないよ……!」

 涙が溢れて、声が震える。

「だって、光輝がいなくなる前に、ちゃんと伝えたかったから」

「いなくならない」

「うん……でも、言わせて」

 光輝は、少しだけ顔をこちらに向けた。

「光輝」

「ああ」

「大好き」

「……ああ」

「私、ずっと待ってる」

「分かってる」

「来年の花火も一緒に見るんだよ」

「ああ」

「海にも行くの」

「ああ」

「写真も、もっと撮る」

「……俺の寝てる写真はやめろ」

「寝てる光輝も撮る」

「やめろ」

 光輝が、ほんの少し笑った。

 その笑顔を見たら、涙がさらにこぼれた。

「だから、絶対に戻ってきて」

「戻る」

「私のところに」

「理紗のところに」

 光輝は、ベッドの上から手を伸ばした。

 私はその手を両手で包み込む。

 冷たい。

 けれど、確かに光輝の手だった。

「小指、出して」

「今?」

「今じゃなきゃ嫌」

 光輝は弱々しく笑いながら、小指を差し出した。

 私は自分の小指を絡める。

「約束」

「ああ、約束」

「絶対に破らないでね」

「破らない」

 そのとき、看護師さんが静かに声をかけた。

「近藤くん、そろそろ時間です」

 光輝の指が、私の小指を強く握った。

 離したくない。

 このまま、ずっと握っていたい。

 けれど、光輝は手術を受けなければならない。

「理紗」

「うん……」

「笑って」

「無理だよ」

「じゃあ、泣いててもいい」

「さっきも同じこと言ってた」

「でも、ひとつだけお願いがある」

「なに?」

「俺が戻ってきたとき、一番に名前を呼んで」

 私は涙を拭った。

「分かった」

「絶対だぞ」

「うん。絶対」

 光輝は、私の手の甲へ唇を寄せた。

 触れるだけの、短いキス。

 それなのに、心臓が大きく跳ねた。

「大好きだ、理紗」

「私も。大好き……!」

 ベッドがゆっくり動き始める。

 手が離れていく。

 小指がほどける。

「光輝!」

「理紗!」

 扉の前で、光輝がもう一度こちらを見た。

 その瞳は、怖さを隠せていなかった。

 私も怖い。

 でも、笑わなければ。

 光輝が戻ってこられるように。

 私は涙を流しながら、精いっぱい笑った。

「待ってるから!」

 光輝は、かすかに頷いた。

「行ってくる」

「うん……!」

「すぐ戻る」

 手術室の扉が、ゆっくり閉じていく。

 最後に見えた光輝の顔は、いつもの強がった表情ではなかった。

 泣きそうで、でも優しくて。

 私だけに向ける、光輝の顔だった。

 扉が閉まる。

 赤いランプが点灯した。

 私はその場に崩れ落ちそうになりながら、胸の前で小指を握りしめた。

「光輝……」

 声に出した瞬間、涙が止まらなくなった。

 光輝のお母さんが、そっと肩を抱いてくれる。

「大丈夫よ。きっと大丈夫」

「はい……」

 そう答えたけれど、声は震えていた。

 手術室の前の時計だけが、静かに進んでいく。

 一時間。

 二時間。

 三時間。

 時間が経つほど、不安は大きくなった。

 私は何度もスマートフォンの画面を見つめた。

 光輝からの最後のメッセージ。

『理紗のところに戻る』

 その文字を、何度も指でなぞる。

「戻ってきて……」

 祈るように呟いた。

「光輝、戻ってきてよ……」

 しばらくして、手術室の中から慌ただしい足音が聞こえた。

 医師や看護師が、何人も出入りしている。

 光輝のお母さんが立ち上がった。

「何かあったのかしら……」

 私は凍りついた。

 赤いランプは、まだ消えない。

 扉の向こうで、誰かが叫んだ。

「血圧が下がっています!」

 その声が聞こえた瞬間、全身から血の気が引いた。

「嫌……」

 私は扉へ駆け寄った。

「光輝!」

 返事はない。

「光輝、聞こえる? 私、ここにいるよ!」

 扉に手をつく。

 冷たい。

 あまりにも冷たかった。

「約束したよね……!」

 涙が溢れる。

「私のところに戻ってくるって……!」

 扉の向こうから、機械音が響いた。

 一定だった音が、少しずつ速くなる。

 私は小指を強く握りしめた。

「光輝……お願い……」

 声が震える。

「私、まだ光輝に伝えたいことがいっぱいあるの」

 来年の花火も見たい。
 海にも行きたい。
 もっと一緒に笑いたい。

 まだ、何も終わっていない。

「だから、戻ってきて……!」

 そのとき。

 手術室の赤いランプが、ふっと消えた。

 扉が開く。

 医師が、ゆっくりこちらへ歩いてきた。

 私は立ち上がった。

「先生……光輝は……?」

 医師は、一度だけ深く息を吐いた。

 その表情を見た瞬間、怖くて動けなくなる。

 そして、医師の口から告げられた言葉に――

 私は、息をすることさえ忘れた。
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