私を選ぶまで
 少ししてから階段を下りてくる足音を耳にし、道路側へ身を軽く寄せると、鼻歌まで聞こえてきた。楽しそうな様子に目を向けると、すぐに彼が鼻歌を止め、足も止めてから、パンツのポケットに両手を入れた。

 さっきの格好とは違い、黒いセーターで袖を捲っていて、黒いデニムのワイドパンツを履いていた。

「こんばんは。駅まで行きたいんですけど、どの道通ればいいですか?」

 すかさず用意していた言葉を掛けたけど、彼はポケットから煙草を取り出し、口にくわえ、火を点けてから、再び手をポケットの中へ戻して言った。

「そこの坂下って行けば……すぐです」

 煙を吐き出しながら口にすると、軽く首を振ったあとで、歩き出した。

「怖いので、途中まで付いて来て貰えませんか?」か細い声で言い、不安げな顔を浮かべ、彼を見つめながら返事を待った。

 すると、彼は深い息と共に煙を吐き出し、坂の向こうを見ながら言った。

「この辺はタクシーもよく通るし、待ってたほうが早いです」

 淡々とした低い声に、坂の向こうへ目を向けると、一台の車が近づいて来るのが見えた。

 徐々に姿を現したのは、行灯の付いたタクシーで、滑るように私の前で停まった。

「また来ますね」そう言って隣を見ると、そこに彼の姿はなく、振り返れば店のドアが閉まる寸前だった。

 あまりの素早さに悔しさよりも先に、彼を手に入れたいという衝動に駆られた。

 そのままタクシーに乗り込み、家に着いてから綿密に先のことを考え始めた。

 妹に話し掛けても何も喋らなさそうだし、湯川は話しやすそうではあるけど、警戒しながら会話をしないと、すぐに切り上げられてしまう。

 彼に話し掛けても、まだ口は固そうだけど、店に通いながら距離を詰めれば気も緩むと思い、次の日から決まった時間に赴くことにした。

 大学の授業はあまりないし、提出物は近くの男に頼めば済ませられる。

 あとは幾つかの女を繕い、彼の反応から見れば簡単なことだと思った。

 翌日。少し大人っぽい服を着てから、金木犀の香水を付け、十時過ぎに家を出た。

 お昼は食事時でタイミングが掴めなさそうだし、朝早く行けば暇な人の印象を与えてしまう。午後だと主婦層が押しかけて来そうで、夜は湯川から横入りされることくらいは見える。

 十一時くらいが会話をするにも相応しく、落ち着いた感じで話が出来るような気がした。
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