「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません
第1話 祝いの席に、あなたはいらない
「今夜の食事は取り消してほしい」
ハロルドがそう言ったとき、ミレイユは食卓に置く席札の最後の一枚を書いていた。
厚い紙に、ハロルド・バートラム、と記したところだった。まだ乾かないインクの上へ、彼の手袋の影が落ちている。
「今夜の、どの食事でしょう」
「君の誕生日の食事だよ。モードの家で集まりがある。温室を直したそうで、最初の客に僕を呼びたいと言うんだ」
ミレイユはペンを皿に戻した。
今日は二十四歳の誕生日だった。ひと月前に食堂の小広間を予約し、両親や親しい人々に招待状を出した。ハロルドが大勢の夜会より少人数の方が落ち着くと言ったので、今年はそうした。
彼にも、今夜の予定は何度も伝えていた。
「もう皆様にご案内しています。お料理もお願いしてありますわ」
「分かっている。だから早く知らせた方がいいと思って来たんだ」
朝の十時を過ぎていた。
ハロルドは、よい判断をしてきた者の顔でミレイユを見ている。薄い灰色の上着は新しく、襟元には彼女が去年の誕生日に贈った留め針が光っていた。
「モードは父親の友人まで招いてしまったらしい。若い男が僕だけなのに、行かないのは気の毒だろう」
「では、あなたはそちらへいらっしゃるのね」
「そうなるね。君から店に連絡してくれるか。ご両親にも、僕からは改めてお詫びすると伝えておいてくれ」
彼の後ろで、扉が開いた。
「ミレイユ様、わたくしからもお願いさせて」
モード・フリントだった。玄関で待っていると聞いていたが、話が終わるまで待つつもりはなかったらしい。ドリスが困った顔でその後ろに立っている。
「彼ったら、わたくしがひと言相談しただけで、すぐにこちらへ来るって。お邪魔してしまってごめんなさい」
「相談なさったのは、いつでしょう」
「昨日の夕方ですわ。温室の花がちょうど開いてしまって。お祝いには一番よい時期ですの」
モードは卓上の席札へ目を落とした。その唇が少しすぼまる。
「お誕生日は、またゆっくり二人で祝ってもらえばよろしいでしょう。大勢では、せっかくの婚約者とお話もできませんもの」
昨日の昼、ミレイユは彼女と会っていた。
仕立屋で偶然顔を合わせ、明日の夜は何を着るのかと訊かれたのだ。誕生日の食事には薄緑の絹を着ると答えた。ハロルドが来ることも、そのときに話した。
「わたくしの食事のことは、ご存じでしたね」
「ええ。けれど、いつも皆様でお祝いしていらっしゃるでしょう。今年だけ、ハロルドを少しお借りしても」
「少し、とは」
「夕方からですから、夜は遅くなると思いますわ」
言い終える前に、モードはハロルドの袖へ指を掛けた。
「困らせたくてお願いしたのではないの。ミレイユ様は、そういうことを分かってくださる方だと思って」
ハロルドが彼女の手を軽く叩く。
「モード、心配しなくていい。ミレイユは理解してくれる」
ミレイユは書き上げた席札を持った。紙の端が、思ったより冷たかった。
去年の秋にも、同じ言葉を聞いた。
馬車で出かける約束の朝、モードの飼い犬が見つからなくなり、ハロルドはそちらへ向かった。犬はほどなく庭で見つかったが、二人はそのまま昼食を取ったという。ミレイユは用意した籠を台所へ戻した。
そのときは犬が無事でよかったと答えた。そう答える自分を、彼が誇ってくれればよいと思った。
今朝も同じ返事をすれば、彼は気持ちよく出ていく。
「わたくし、取り消しませんわ」
ハロルドの顔から笑みが消えた。
「何を?」
「今夜の食事です。来てくださる方とお祝いします」
「僕なしで?」
「ええ」
大きな声は出なかった。そこは少し残念だった。心の中では、もっと腹を立てている。
「君の誕生日だろう。婚約者が来られないのに、どうしてわざわざ」
「わたくしの誕生日だからです。お父様もお母様も予定を空けてくださいました。遠くから来てくださる方もいます。皆様を今からお断りする理由がありません」
「それでは、僕が欠席したことが目立つじゃないか」
ミレイユは彼を見た。
ようやく、それが彼の困り事なのだと分かった。
モードはミレイユの手元を見たまま、困ったように笑った。
「お客様が何かおっしゃったら、お仕事が急に入ったとお伝えすればよろしいのでは? ハロルドも、ただ遊びにいらっしゃるわけではありませんもの。わたくしの父のお相手もお願いするのですし」
「仕事ではありませんわね」
「ミレイユ」
ハロルドの声が一段低くなった。
「モードにそんな言い方をする必要はないだろう。幼なじみは特別なんだ。君と知り合う前から、僕たちは互いの家を行き来していた。急なことを頼まれる間柄もある」
「わたくしとの約束を取り消してよい間柄なのね」
「今日は少し機嫌が悪いようだ」
「ええ。とても」
即答すると、ドリスが後ろで小さく息をのんだ。
ハロルドは、ミレイユがそう答えるとは思わなかったらしい。彼女の頬を見てから、テーブルの上を見直した。
「誕生日なんだから、もっと楽しそうにしてくれないか。来週、欲しい物を選びに連れていくよ」
「欲しい物は、今夜の約束でした」
「だから、それはモードが」
「あなたがお決めになったのでしょう」
ハロルドは口をつぐんだ。
モードが袖を引いた。彼はそちらへ顔を向け、すぐに腕を差し出す。
「少し頭を冷やしておいてくれ。明日また来る。店の方には、うまく言っておいてほしい」
「欠席のお詫びは、ご自分でなさってください」
「君が予約したんだろう」
「その予約は取り消しません。お店には、あなたがお越しにならないとだけ、わたくしから伝えておきます。別の理由は付けませんわ」
ミレイユは彼の席札を、ほかの札の山から外した。
小さな動作を、ハロルドはまじまじと見た。
モードは何か言いかけたが、ミレイユが顔を上げると口を閉じた。二人は最後まで、誕生日おめでとうとは言わなかった。
玄関の扉が閉まってから、ミレイユは椅子に腰を下ろした。
「お茶をお持ちしますか」
ドリスが尋ねた。
「ええ。とても熱いものをお願い」
「かしこまりました」
「ドリス」
「はい」
「今のわたくし、意地悪だったかしら」
侍女は主人の顔を見て、少し考えた。
「お祝いのお食事を続けることが、意地悪なのでしたら、今夜の料理長も意地悪になってしまいます」
ミレイユは笑おうとして、変な息を漏らした。
目元に手をやるより先に、ドリスが清潔な布を差し出した。受け取ったら涙が落ちた。泣くつもりはなかったのに、布はすぐに濡れた。
「緑のドレスに、赤い目は合わないわ」
「まだ朝でございます。冷やす時間はございますよ」
「どうして、そんなに手際がいいの」
「お嬢様のお支度を何年しているとお思いですか」
ドリスが肩を張ったので、今度は少し笑えた。
朝食を終えた母がやって来たとき、ミレイユは事情を話した。ハロルドが忙しくなったとは言わなかった。モードの温室の祝いを選び、自分には食事を取り消してほしいと言ったのだと、そのまま告げた。
伯爵夫人は娘の隣に座り、濡れた布を見た。
「続けると決めたのね」
「ええ。いけなかったでしょうか」
「あなたの祝いでしょう。わたくしは、とても楽しみにしているわ」
「お父様は、何かおっしゃるかしら」
「ハロルドに? それともあなたに?」
「わたくしに」
「まず、おめでとうと言うでしょうね。毎年、朝食で言ったのを忘れて、夕方にも言うのだから」
母は扇を開き、ミレイユの頬をゆっくりあおいだ。
「今、あなたがハロルドに腹を立てているからといって、お父様まで怖がらなくていいのよ」
ミレイユは返事をする代わりに、母の肩へ額を寄せた。
母はしばらくそのままにしてくれた。それから卓上の席札を一枚つまむ。
「一つ席が空くわね。料理長に相談しましょうか」
「一つ分の料理を減らしてもらうの?」
「その分、菓子を増やしてもらえるかしら」
母の声があまりに真剣で、ミレイユは顔を上げた。
「お母様」
「だって、あそこの焼き菓子はおいしいでしょう」
「お父様に止められますわ」
「今日はあなたのお祝いです。あなたが頼めば大丈夫」
二人で食事の献立を広げた。追加の菓子まで頼むのはさすがにやめたが、ミレイユは苦味の強い果実酒を、好きな白葡萄のものへ替えてもらうことにした。
ハロルドの好みに合わせ、いつも自分の杯を残していた酒だった。
夕方の食堂では、窓辺の枝物に小さな白い花がついていた。
ミレイユは早めに到着し、用意された席を見て回った。料理長が人数の変更を確かめ、卓の端に置かれていた椅子を一脚運ばせた。
「ご不都合がございましたら、何でもお申し付けください」
「一つだけ。主役の取り分を小さくなさらないで」
料理長は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「かしこまりました。安心いたしました」
「安心?」
「お昼のご連絡で、皆様、何かご心配事がおありなのかと。お食事がお口に合えばよろしいのですが」
「楽しみにしています」
今度は、無理なくそう言えた。
客が到着するにつれ、小広間は声で満ちた。母の友人夫妻は春に孫が生まれる話をし、父は新しい眼鏡が合わないとこぼした。いつもならハロルドの隣を守り、彼の話にほかの客が入れるよう気を配っていたが、今夜は父の眼鏡を借りて掛けてみる余裕があった。
「お父様、これではお皿しか見えませんわ」
「お前の顔も見える」
「わたくし、今お皿のそばにおりますもの」
笑っているところへ、オーウェンが入ってきた。
背の高い彼は、入り口で給仕に手袋を渡してから両親に挨拶をした。黒に近い深緑の上着を着ている。公爵になって三年、少し前より父と仕事の話をすることが多くなった。
「遅くなったか」
「いいえ。まだ時間前よ」
「よかった。これを店に取りに寄った」
差し出された細長い箱には、庭用の小鋏が入っていた。柄には細かな蔓の模様が彫られている。刃はまだ新しく、紙に包まれていた。
「本当にこれにしたのね」
「君がこれを欲しいと言った」
「誕生日に刃物を贈るのはよくないと、店の方に言われなかった?」
「言われた。だから、銅貨を一枚もらうことにした」
「買ったことにするの?」
「君が構わないなら」
ミレイユは小さな財布を開き、銅貨を探した。オーウェンは掌を差し出して待っていた。いつからこんなに大きい手だったかと、硬貨を落とす一瞬だけ思った。
「これで、あなたの誕生日には鋏を返さなくてよいのね」
「返される予定があったのか」
「贈り物が思いつかなかったら」
「今年は早めに考えておこうと思わせる贈り物だな」
彼が苦い顔を作ったので、ミレイユは鋏の箱を胸に引き寄せた。
彼女の席からは、卓を挟んでオーウェンがよく見えた。かつて両家の領地が隣り合い、夏の間は毎日のように遊んだ相手だ。王都で会う今も、どうしてか話の途中から会話が始まる。
給仕が食前酒を運ぶと、父が立ち上がった。
「ミレイユ、誕生日おめでとう」
母が彼女にだけ分かる顔で笑った。
父は朝食のことをやはり忘れているらしかった。
「今年も、こうして一緒に食卓を囲めることをうれしく思う。お前が健康で、楽しんで過ごせる一年であるように」
乾杯の杯が上がった。
ミレイユも白葡萄の酒を口にした。好きな甘さだった。
魚の料理が運ばれる頃、母の友人の夫がハロルドの姿がないことを尋ねた。ミレイユは膝の上で手を握ったが、用意していた言葉を変えなかった。
「ハロルド様は、フリント家の温室のお祝いへいらっしゃいました」
「ほう。今夜はそちらを」
「ええ。こちらには欠席されます」
相手はそれ以上訊かなかった。父が料理に合わせる酒のことを尋ね、会話は無理なく移った。
ミレイユは、自分だけで何もかも説明しなくてよかったのだと知った。
オーウェンもハロルドを悪く言わなかった。彼は料理長が皿の説明を始めると真面目に聞き、ミレイユの前に置かれた大きな菓子を見て、片眉を上げた。
「主役は大盛りなのか」
「わたくしからお願いしたの」
「判断がよい」
「少し食べたいなら、そう言えばいいわ」
「その大きさなら、君が食べ切るのを見ていたい」
「挑まれた気がするのだけれど」
「よく分かったな」
ミレイユは匙を取り、まず一口を食べた。
温かい果実の下には、柔らかい生地があった。思わず頬が緩むと、オーウェンまで笑った。
後で少し彼の皿へ分けることになったが、その前に、味はどうかと訊かれて、彼女はおいしいと答えた。今日はそれを、何度も言えた。
帰宅してドレスを脱ぐ頃には、足が少し痛かった。
ドリスが髪飾りを外し、鋏の箱を鏡台の隅に置いた。花束も祝いの手紙も無事に届いている。窓の外では、夜回りの灯が通り過ぎた。
ミレイユは鏡の中の自分を見た。
今朝より顔色がよい。疲れているのに、楽しかった場面が次々と思い出せる。
ハロルドは、今夜の席に必要だったのだろうか。
一緒にいてほしいと思っていた。来てくれたらうれしかった。それは、間違いのない気持ちだった。
けれど、そのためにほかのすべてを取り消すことはなかった。
「明日の午前、お父様にお話があると伝えてもらえる?」
「かしこまりました」
「お母様にも、同席していただきたいの」
ドリスは手を止めたが、何を話すのかとは尋ねなかった。
ミレイユは、朝に外した一枚の席札を引き出しから出した。インクはとうに乾いている。
それを破る気にはならなかった。彼の名を書いた時の自分まで、乱暴に扱いたくはなかった。
ただ、これから先も同じ席を用意するつもりはない。
彼女は札を畳み、処分する紙の箱へ入れた。
ハロルドがそう言ったとき、ミレイユは食卓に置く席札の最後の一枚を書いていた。
厚い紙に、ハロルド・バートラム、と記したところだった。まだ乾かないインクの上へ、彼の手袋の影が落ちている。
「今夜の、どの食事でしょう」
「君の誕生日の食事だよ。モードの家で集まりがある。温室を直したそうで、最初の客に僕を呼びたいと言うんだ」
ミレイユはペンを皿に戻した。
今日は二十四歳の誕生日だった。ひと月前に食堂の小広間を予約し、両親や親しい人々に招待状を出した。ハロルドが大勢の夜会より少人数の方が落ち着くと言ったので、今年はそうした。
彼にも、今夜の予定は何度も伝えていた。
「もう皆様にご案内しています。お料理もお願いしてありますわ」
「分かっている。だから早く知らせた方がいいと思って来たんだ」
朝の十時を過ぎていた。
ハロルドは、よい判断をしてきた者の顔でミレイユを見ている。薄い灰色の上着は新しく、襟元には彼女が去年の誕生日に贈った留め針が光っていた。
「モードは父親の友人まで招いてしまったらしい。若い男が僕だけなのに、行かないのは気の毒だろう」
「では、あなたはそちらへいらっしゃるのね」
「そうなるね。君から店に連絡してくれるか。ご両親にも、僕からは改めてお詫びすると伝えておいてくれ」
彼の後ろで、扉が開いた。
「ミレイユ様、わたくしからもお願いさせて」
モード・フリントだった。玄関で待っていると聞いていたが、話が終わるまで待つつもりはなかったらしい。ドリスが困った顔でその後ろに立っている。
「彼ったら、わたくしがひと言相談しただけで、すぐにこちらへ来るって。お邪魔してしまってごめんなさい」
「相談なさったのは、いつでしょう」
「昨日の夕方ですわ。温室の花がちょうど開いてしまって。お祝いには一番よい時期ですの」
モードは卓上の席札へ目を落とした。その唇が少しすぼまる。
「お誕生日は、またゆっくり二人で祝ってもらえばよろしいでしょう。大勢では、せっかくの婚約者とお話もできませんもの」
昨日の昼、ミレイユは彼女と会っていた。
仕立屋で偶然顔を合わせ、明日の夜は何を着るのかと訊かれたのだ。誕生日の食事には薄緑の絹を着ると答えた。ハロルドが来ることも、そのときに話した。
「わたくしの食事のことは、ご存じでしたね」
「ええ。けれど、いつも皆様でお祝いしていらっしゃるでしょう。今年だけ、ハロルドを少しお借りしても」
「少し、とは」
「夕方からですから、夜は遅くなると思いますわ」
言い終える前に、モードはハロルドの袖へ指を掛けた。
「困らせたくてお願いしたのではないの。ミレイユ様は、そういうことを分かってくださる方だと思って」
ハロルドが彼女の手を軽く叩く。
「モード、心配しなくていい。ミレイユは理解してくれる」
ミレイユは書き上げた席札を持った。紙の端が、思ったより冷たかった。
去年の秋にも、同じ言葉を聞いた。
馬車で出かける約束の朝、モードの飼い犬が見つからなくなり、ハロルドはそちらへ向かった。犬はほどなく庭で見つかったが、二人はそのまま昼食を取ったという。ミレイユは用意した籠を台所へ戻した。
そのときは犬が無事でよかったと答えた。そう答える自分を、彼が誇ってくれればよいと思った。
今朝も同じ返事をすれば、彼は気持ちよく出ていく。
「わたくし、取り消しませんわ」
ハロルドの顔から笑みが消えた。
「何を?」
「今夜の食事です。来てくださる方とお祝いします」
「僕なしで?」
「ええ」
大きな声は出なかった。そこは少し残念だった。心の中では、もっと腹を立てている。
「君の誕生日だろう。婚約者が来られないのに、どうしてわざわざ」
「わたくしの誕生日だからです。お父様もお母様も予定を空けてくださいました。遠くから来てくださる方もいます。皆様を今からお断りする理由がありません」
「それでは、僕が欠席したことが目立つじゃないか」
ミレイユは彼を見た。
ようやく、それが彼の困り事なのだと分かった。
モードはミレイユの手元を見たまま、困ったように笑った。
「お客様が何かおっしゃったら、お仕事が急に入ったとお伝えすればよろしいのでは? ハロルドも、ただ遊びにいらっしゃるわけではありませんもの。わたくしの父のお相手もお願いするのですし」
「仕事ではありませんわね」
「ミレイユ」
ハロルドの声が一段低くなった。
「モードにそんな言い方をする必要はないだろう。幼なじみは特別なんだ。君と知り合う前から、僕たちは互いの家を行き来していた。急なことを頼まれる間柄もある」
「わたくしとの約束を取り消してよい間柄なのね」
「今日は少し機嫌が悪いようだ」
「ええ。とても」
即答すると、ドリスが後ろで小さく息をのんだ。
ハロルドは、ミレイユがそう答えるとは思わなかったらしい。彼女の頬を見てから、テーブルの上を見直した。
「誕生日なんだから、もっと楽しそうにしてくれないか。来週、欲しい物を選びに連れていくよ」
「欲しい物は、今夜の約束でした」
「だから、それはモードが」
「あなたがお決めになったのでしょう」
ハロルドは口をつぐんだ。
モードが袖を引いた。彼はそちらへ顔を向け、すぐに腕を差し出す。
「少し頭を冷やしておいてくれ。明日また来る。店の方には、うまく言っておいてほしい」
「欠席のお詫びは、ご自分でなさってください」
「君が予約したんだろう」
「その予約は取り消しません。お店には、あなたがお越しにならないとだけ、わたくしから伝えておきます。別の理由は付けませんわ」
ミレイユは彼の席札を、ほかの札の山から外した。
小さな動作を、ハロルドはまじまじと見た。
モードは何か言いかけたが、ミレイユが顔を上げると口を閉じた。二人は最後まで、誕生日おめでとうとは言わなかった。
玄関の扉が閉まってから、ミレイユは椅子に腰を下ろした。
「お茶をお持ちしますか」
ドリスが尋ねた。
「ええ。とても熱いものをお願い」
「かしこまりました」
「ドリス」
「はい」
「今のわたくし、意地悪だったかしら」
侍女は主人の顔を見て、少し考えた。
「お祝いのお食事を続けることが、意地悪なのでしたら、今夜の料理長も意地悪になってしまいます」
ミレイユは笑おうとして、変な息を漏らした。
目元に手をやるより先に、ドリスが清潔な布を差し出した。受け取ったら涙が落ちた。泣くつもりはなかったのに、布はすぐに濡れた。
「緑のドレスに、赤い目は合わないわ」
「まだ朝でございます。冷やす時間はございますよ」
「どうして、そんなに手際がいいの」
「お嬢様のお支度を何年しているとお思いですか」
ドリスが肩を張ったので、今度は少し笑えた。
朝食を終えた母がやって来たとき、ミレイユは事情を話した。ハロルドが忙しくなったとは言わなかった。モードの温室の祝いを選び、自分には食事を取り消してほしいと言ったのだと、そのまま告げた。
伯爵夫人は娘の隣に座り、濡れた布を見た。
「続けると決めたのね」
「ええ。いけなかったでしょうか」
「あなたの祝いでしょう。わたくしは、とても楽しみにしているわ」
「お父様は、何かおっしゃるかしら」
「ハロルドに? それともあなたに?」
「わたくしに」
「まず、おめでとうと言うでしょうね。毎年、朝食で言ったのを忘れて、夕方にも言うのだから」
母は扇を開き、ミレイユの頬をゆっくりあおいだ。
「今、あなたがハロルドに腹を立てているからといって、お父様まで怖がらなくていいのよ」
ミレイユは返事をする代わりに、母の肩へ額を寄せた。
母はしばらくそのままにしてくれた。それから卓上の席札を一枚つまむ。
「一つ席が空くわね。料理長に相談しましょうか」
「一つ分の料理を減らしてもらうの?」
「その分、菓子を増やしてもらえるかしら」
母の声があまりに真剣で、ミレイユは顔を上げた。
「お母様」
「だって、あそこの焼き菓子はおいしいでしょう」
「お父様に止められますわ」
「今日はあなたのお祝いです。あなたが頼めば大丈夫」
二人で食事の献立を広げた。追加の菓子まで頼むのはさすがにやめたが、ミレイユは苦味の強い果実酒を、好きな白葡萄のものへ替えてもらうことにした。
ハロルドの好みに合わせ、いつも自分の杯を残していた酒だった。
夕方の食堂では、窓辺の枝物に小さな白い花がついていた。
ミレイユは早めに到着し、用意された席を見て回った。料理長が人数の変更を確かめ、卓の端に置かれていた椅子を一脚運ばせた。
「ご不都合がございましたら、何でもお申し付けください」
「一つだけ。主役の取り分を小さくなさらないで」
料理長は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「かしこまりました。安心いたしました」
「安心?」
「お昼のご連絡で、皆様、何かご心配事がおありなのかと。お食事がお口に合えばよろしいのですが」
「楽しみにしています」
今度は、無理なくそう言えた。
客が到着するにつれ、小広間は声で満ちた。母の友人夫妻は春に孫が生まれる話をし、父は新しい眼鏡が合わないとこぼした。いつもならハロルドの隣を守り、彼の話にほかの客が入れるよう気を配っていたが、今夜は父の眼鏡を借りて掛けてみる余裕があった。
「お父様、これではお皿しか見えませんわ」
「お前の顔も見える」
「わたくし、今お皿のそばにおりますもの」
笑っているところへ、オーウェンが入ってきた。
背の高い彼は、入り口で給仕に手袋を渡してから両親に挨拶をした。黒に近い深緑の上着を着ている。公爵になって三年、少し前より父と仕事の話をすることが多くなった。
「遅くなったか」
「いいえ。まだ時間前よ」
「よかった。これを店に取りに寄った」
差し出された細長い箱には、庭用の小鋏が入っていた。柄には細かな蔓の模様が彫られている。刃はまだ新しく、紙に包まれていた。
「本当にこれにしたのね」
「君がこれを欲しいと言った」
「誕生日に刃物を贈るのはよくないと、店の方に言われなかった?」
「言われた。だから、銅貨を一枚もらうことにした」
「買ったことにするの?」
「君が構わないなら」
ミレイユは小さな財布を開き、銅貨を探した。オーウェンは掌を差し出して待っていた。いつからこんなに大きい手だったかと、硬貨を落とす一瞬だけ思った。
「これで、あなたの誕生日には鋏を返さなくてよいのね」
「返される予定があったのか」
「贈り物が思いつかなかったら」
「今年は早めに考えておこうと思わせる贈り物だな」
彼が苦い顔を作ったので、ミレイユは鋏の箱を胸に引き寄せた。
彼女の席からは、卓を挟んでオーウェンがよく見えた。かつて両家の領地が隣り合い、夏の間は毎日のように遊んだ相手だ。王都で会う今も、どうしてか話の途中から会話が始まる。
給仕が食前酒を運ぶと、父が立ち上がった。
「ミレイユ、誕生日おめでとう」
母が彼女にだけ分かる顔で笑った。
父は朝食のことをやはり忘れているらしかった。
「今年も、こうして一緒に食卓を囲めることをうれしく思う。お前が健康で、楽しんで過ごせる一年であるように」
乾杯の杯が上がった。
ミレイユも白葡萄の酒を口にした。好きな甘さだった。
魚の料理が運ばれる頃、母の友人の夫がハロルドの姿がないことを尋ねた。ミレイユは膝の上で手を握ったが、用意していた言葉を変えなかった。
「ハロルド様は、フリント家の温室のお祝いへいらっしゃいました」
「ほう。今夜はそちらを」
「ええ。こちらには欠席されます」
相手はそれ以上訊かなかった。父が料理に合わせる酒のことを尋ね、会話は無理なく移った。
ミレイユは、自分だけで何もかも説明しなくてよかったのだと知った。
オーウェンもハロルドを悪く言わなかった。彼は料理長が皿の説明を始めると真面目に聞き、ミレイユの前に置かれた大きな菓子を見て、片眉を上げた。
「主役は大盛りなのか」
「わたくしからお願いしたの」
「判断がよい」
「少し食べたいなら、そう言えばいいわ」
「その大きさなら、君が食べ切るのを見ていたい」
「挑まれた気がするのだけれど」
「よく分かったな」
ミレイユは匙を取り、まず一口を食べた。
温かい果実の下には、柔らかい生地があった。思わず頬が緩むと、オーウェンまで笑った。
後で少し彼の皿へ分けることになったが、その前に、味はどうかと訊かれて、彼女はおいしいと答えた。今日はそれを、何度も言えた。
帰宅してドレスを脱ぐ頃には、足が少し痛かった。
ドリスが髪飾りを外し、鋏の箱を鏡台の隅に置いた。花束も祝いの手紙も無事に届いている。窓の外では、夜回りの灯が通り過ぎた。
ミレイユは鏡の中の自分を見た。
今朝より顔色がよい。疲れているのに、楽しかった場面が次々と思い出せる。
ハロルドは、今夜の席に必要だったのだろうか。
一緒にいてほしいと思っていた。来てくれたらうれしかった。それは、間違いのない気持ちだった。
けれど、そのためにほかのすべてを取り消すことはなかった。
「明日の午前、お父様にお話があると伝えてもらえる?」
「かしこまりました」
「お母様にも、同席していただきたいの」
ドリスは手を止めたが、何を話すのかとは尋ねなかった。
ミレイユは、朝に外した一枚の席札を引き出しから出した。インクはとうに乾いている。
それを破る気にはならなかった。彼の名を書いた時の自分まで、乱暴に扱いたくはなかった。
ただ、これから先も同じ席を用意するつもりはない。
彼女は札を畳み、処分する紙の箱へ入れた。