「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません
第2話 二番目をやめる日
翌朝、ミレイユは父の書斎へ、紙を一枚だけ持っていった。
ハロルドと婚約してからの不満を書き連ねようとして、昨夜は何度もペンを取った。だが、何をされれば別れてよいのか、誰かに判定してもらいたいわけではなかった。
紙にあるのは、婚約を解消したいという申し出と、ハロルドに伝える予定の時刻だけだった。
「本当に決めたのか」
父は最後まで読んでから尋ねた。
「はい」
「昨日のことで、腹が立っているのは分かる」
「昨日のことで、決めました。これからも同じことになると思います」
ミレイユは椅子の上で背を伸ばした。
「以前は、結婚したら変わるかもしれないと思っていました。家族になれば、わたくしのことも気に掛けてくれるのだろうと。でも、ハロルド様は、今のわたくしにも十分によくしているおつもりなのです」
母は隣の椅子で手を重ねて聞いていた。
「何か、別れられない事情がありますか」
ミレイユが訊くと、父は紙を机に置いた。
「家同士で決めたことで、済ませる話はある。だが、それはお前が彼と結婚しなければ始末できないものではない」
「お父様に、ご迷惑をお掛けします」
「相手の家へ話すのは、迷惑とは言わん。お前の父親の仕事だ」
父は胸を張りかけ、少し咳をした。
「もっと早く様子を確かめるべきだった、とは思っている」
「わたくしが、困っていないと言いましたから」
「それでもだ。私たちも、これからは聞き方を考えるとしよう」
母が手を伸ばし、ミレイユの膝の上の指をほどいた。
「わたくし、嫌だと言ってよかったのね」
「ええ」
「嫌だと言えば、そのうち慣れると言われるのかと思っていました」
「何に慣れるかにもよるわ。わたくしはお父様のいびきには慣れたけれど」
「それは今、話さなくてよい」
「あなたの誕生日に、よその女性のお祝いへ行かれたことには、慣れないと思うわ」
父の眉が上がった。母は涼しい顔で夫を見ている。
ミレイユは、昨日から両親の知らなかったやり取りを何度も見た気がした。二人もいつも意見が合うわけではない。けれど、母が何かを言えば、父はまず聞く。
「ハロルド様には、わたくしからお話しします」
言うと、父はうなずいた。
「私は隣の部屋にいる。必要なら呼びなさい」
ハロルドは正午前に来た。
手には小さな菓子の箱を提げていた。食堂の名が印刷された箱だった。
「昨夜の菓子が気に入ったそうだね。君のお母上が今朝、使いの者に話したと聞いて。店に寄ってきたんだ」
ミレイユは箱を受け取らなかった。
「お掛けになってください」
「もう怒っていない?」
「お話があります」
ハロルドは箱をテーブルに置き、ソファに座った。彼女がいつもの向かい側ではなく、一人掛けの椅子を選ぶと、不思議そうに首を動かした。
「急に何だい。昨日のことなら、ちゃんと埋め合わせをする。来週の水曜なら、僕も空いているよ」
「婚約を解消したいと思います」
ハロルドの手が、箱のリボンの上で止まった。
「……それは、何の話だ」
「あなたとわたくしの婚約です。お父様とお母様には、今朝お話ししました」
「君は昨日、一人で祝いをしたんだろう? 僕の欠席を皆の前でわざわざ言って、それで済んだんじゃないのか」
「済ませるために話したのではありません。欠席した理由を訊かれたので、答えました」
「僕を困らせるつもりがないなら、そんなことを言わないでくれ。昨日の夜も、モードはずっと心配していた」
ミレイユは膝に置いた手を動かさなかった。
彼がここへ来てから、自分が心配される話は一つも出ていなかった。
「二年間、お世話になりました。わたくしは、あなたとの結婚を望みません」
「そこまで言うことか?」
ハロルドは声を大きくした。扉の近くに立っていたドリスへ目をやり、少し声を落とす。
「モードと僕のことを誤解しているんだね。子どもの頃からの付き合いなんだ。彼女は何も悪いことを考えていないし、僕も君と結婚するつもりだ。そこは変わっていない」
「存じています」
「それなら」
「わたくしは、その結婚をしたくないのです」
彼は彼女を見たまま、息を吐いた。
少しのあいだ、庭で土を掘る音が聞こえていた。庭師が春の苗を植えている。昨日までは、ここで彼の機嫌が直るのを待ってから、外へ出ることが多かった。
「ミレイユ。君は、僕から大切にされていないと思ったのかもしれないが」
「ええ」
「それは、君が全部を見ていないからだ。モードはああ見えて気が小さい。人を招いて失敗するのを怖がっていた。助けてほしいと言う相手を、放っておけなかったんだよ」
「わたくしは、一緒に祝ってほしいと言いました」
「それは次でもできるだろう」
ミレイユはしばらく彼を見ていた。
ハロルドはその視線を、説明が通じ始めたしるしだと思ったらしい。体を少し前へ出し、彼女の名を優しく呼んだ。
「昨日だけ、譲ってくれればよかった。君は賢いんだから」
「わたくしの祝いは、次でもよい。モード様のお集まりは、昨日でなければいけない。そうお考えなのね」
「花の時期が」
「わたくしは、これからもそのような比べ方をされるのが嫌です」
口にすると、ずいぶん簡単だった。
彼の事情を幾つも並べて、最後に少しだけ自分の寂しさを添える必要はなかった。
「あなたにとっては、よくある予定の変更なのでしょう。わたくしには違います。もう合わせたくありません」
「だから、しばらく休めばいい。二週間ほど会わなければ、君も落ち着く」
「休む話にはしません」
ミレイユは立ち上がり、父を呼ぶようドリスに頼んだ。
ハロルドの頬が赤くなった。
「二人の話に、いきなり親を入れるのか」
「家同士でも交わした約束ですから。終わらせる話には、両家の方に入っていただきます」
「僕は君と、喧嘩をしたいわけじゃない」
「わたくしもです」
父が入ってきたとき、ハロルドはすぐに立って礼をした。ミレイユに向けていた険しさは消え、戸惑いを前に出した顔になった。
「伯爵、申し訳ありません。昨日のことで、ミレイユが気を悪くしてしまって」
「娘から聞いている」
「僕も、不注意でした。ただ、婚約まで解消するようなことでは」
「娘は、解消を望んでいる」
父は彼に座るよう勧め、自分もソファに腰を下ろした。
「君のご父君には、これから連絡する。両家の取り決めを確認して、早く済ませよう」
ハロルドはミレイユを振り返った。彼女は元の椅子に座り直し、父の隣へは移らなかった。
彼の目が、頼むから話を大きくしないでくれ、と言っているのが分かった。
いつもはここで何か言っていた。父に聞かれないように、彼の名を呼び、あとで二人で話しましょうと言っていた。
今日は、その続きをしなかった。
翌日、バートラム侯爵から返事が来た。
侯爵は二日後に予定していた訪問を早め、誕生日の翌々日にロックウッド家へ足を運んだ。夫人は遠方の親族を訪ねて留守だったため、侯爵とハロルドの二人で来た。
話し合いは長くならなかった。
両家の間に土地や借入れを結び付ける契約はなく、婚礼の準備も本格的に始まる前だった。互いの家から贈った品と、既に連絡済みの親族への知らせを確かめればよかった。
「娘さんのご意向が変わらないのなら、こちらから婚姻を迫るわけにはいきません」
侯爵はそう言って、ミレイユに向き直った。
「息子のことで、不快な思いをさせたと聞きました。昨日、本人とも話をしました」
「お時間を取っていただき、ありがとうございます」
父と侯爵が確認をしているあいだ、ミレイユはハロルドからの贈り物を入れた箱を家令に預けた。婚約時に受け取った品は記録とともに返す。季節の花や菓子の数を争う話にはならなかった。
ハロルドは箱を見てから、彼女の胸元を見た。
「首飾りは、持っていても構わないよ」
「婚約の記念にいただいた物ですから、お返しします」
「君によく似合っていた」
「ありがとうございました」
彼がそう言った日のことは覚えていた。青い石を選びながら、彼は鏡越しに笑った。うれしかったから、ミレイユは何度もその首飾りを着けた。
返すことが少しも惜しくない、とまでは思わなかった。
箱の中の首飾りを確かめたあと、彼女は蓋を閉めてもらった。
書面が手元へ回ってきた。
両家と本人たちが合意して婚約を解消する、簡潔な内容だった。ミレイユは最初から最後まで読み、自分の名を書いた。ペン先が引っ掛からないよう、ゆっくりと。
次にハロルドがペンを取った。
「これで、しばらく落ち着けるだろう」
彼はミレイユにだけ聞こえるつもりで言ったのかもしれない。だが、隣にいた侯爵にも聞こえた。
「ハロルド。休暇の申し合わせではない」
「分かっています」
彼は返事をし、やや乱れた字で署名した。
父が書面を引き取り、双方の控えを確認した。侯爵は帰宅後に親族へ知らせると言った。
それだけで、ミレイユとハロルドの婚約は終わった。
帰り際、ハロルドは玄関の前で少し足を止めた。
「次の舞踏会には来るんだろう?」
「招待をいただいていますので、出席するつもりです」
「では、そのときに話そう。今は、こうする方が君も気が済むんだと思う」
「ご挨拶をすることはあるでしょう。でも、婚約を続けるお話はしません」
ハロルドは唇を引き結び、父親の待つ馬車へ歩いていった。
ミレイユは、その背中を最後まで見送った。
玄関の扉が閉まると、母がすぐ隣へ来た。
「今日は、昼食をどうする?」
「……昼食?」
「そうよ。少し遅くなったわね。食欲がなければ、スープだけでも」
ミレイユは自分の腹に手を当てた。
緊張していたあいだは何も感じなかったのに、そう訊かれると、急に空腹に気がついた。
「いつもどおり、いただけると思います」
「それならよかった」
母は厨房へ伝えに行った。
父も書斎へ戻りかけたが、途中で振り返った。
「庭に、新しい苗が入っている。午後、見にいくといい」
「はい」
「よい鋏もあるんだろう」
ミレイユはうなずいた。父はそれを見ると、今度こそ書斎へ入っていった。
ずいぶん大きなことが終わったはずだった。
けれど、昼食は食べてよくて、午後に庭を見にいってもよかった。母も父も、彼女に一日中うつむいているよう求めなかった。
午後、ミレイユは新しい鋏を持って庭へ出た。
庭師に切ってよい枝を確かめ、小さな枯れ枝を落とした。刃はよく切れた。あまり楽しいので余計なところまで切りたくなり、庭師に笑いながら止められた。
「それは、これから咲く枝でございます」
「危なかったわ。わたくし、使うことばかり考えていたのね」
切り終えた枝を籠へ入れ、彼女は道具を拭いた。
オーウェンにも知らせなければ、と思った。
誕生日の席に来てくれた人々には、父から婚約解消の連絡を出すことになっている。だが、彼には自分から話したかった。
便箋には、少し話す時間をもらえるかとだけ書いた。使いを出すと、その日の夕方、明日の午後に寄るという返事が来た。
約束の時刻、オーウェンは伯爵邸の庭へ案内された。
ミレイユは風を避けられる煉瓦の壁際で待っていた。ドリスがお茶を運び、少し離れた椅子に座る。
「鋏はどうだ」
「庭師に止められるくらい、よく切れるわ」
「それは刃の問題ではないな」
「わたくしも昨日気がついたの」
オーウェンは笑い、椅子を引いた。
ミレイユは彼が座るのを待ってから、手を膝に戻した。
「ハロルド様との婚約を、解消したわ」
オーウェンの顔が改まった。
「昨日、両家で書面を交わしたの。わたくしからお願いしたことよ。誰かにそうするよう言われたわけではなくて」
「そうか」
彼は、それだけ言って少し待った。
ミレイユは、気の毒がる声も、よかったと言い切る声も来ないことに、ほっとした。
「あなたにも、伝えておきたかったの。誕生日の席で、変な心配をさせたかもしれないから」
「食事を楽しんでいたのは、本当だったか」
「ええ」
「それなら、よかった」
ミレイユは肩の力を抜いた。
オーウェンは運ばれてきた茶器を取り、彼女の分を注いだ。庭の様子を見て、今から咲く花を訊く。ミレイユも、庭師に昨日教わったばかりのことを話した。
話しているうち、彼の目が自分に戻ってくる間隔が、いつもより短い気がした。
「何?」
「いや」
「わたくし、何かおかしなところを切ったかしら」
「今日は鋏を持っていないだろう」
「昨日の話よ」
彼は茶杯を置いて、少し笑った。
「ミレイユ。あさっての昼、時間はあるか」
彼女は頭の中で予定をたどった。刺繍の稽古は明日で、母の友人を訪ねるのは週の終わりだった。
「空いているわ」
「では、俺と食事をしてほしい」
「いいわよ。何人で?」
オーウェンは笑わなかった。
「君と俺で」
ミレイユは、持ち上げかけた茶杯を元の場所へ戻した。