「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません
第18話 赤い帆を、あなたと
三月の朝、ミレイユは目を開けるなり、窓の明るさを見た。
雨は降っていない。
昨夜のうちに用意してもらった外出着は、衝立の向こうに掛かっている。急いで起き上がろうとした彼女を、隣から腕が捕まえた。
「まだ早い」
「晴れているわ」
「見れば分かる」
「昨日は、晴れたら朝食のあとで行こうと言ったでしょう」
「だから、朝食のあとだ」
彼女は振り向き、寝台に横たわったままの夫を見た。オーウェンは彼女の髪を指ですくい、顔の脇へかかっていた一房を払った。
「誕生日おめでとう、ミレイユ」
そう言われると、起きるのをやめたくなる。彼女は掛け布を引き寄せ直し、彼の隣へ横になった。
「ありがとう」
「君は毎朝、俺を起こすのが仕事だと思っているだろう」
「違います。あなたが起きないから、結果としてそうなっているだけよ」
「今日は、君を甘やかすところから始めたかった」
言い終える前に、彼は彼女の額へ唇を押し当てた。ミレイユは目を閉じ、彼の胸へ手を置いた。呼吸に合わせて少しずつ動く体に触れていると、急いで着替える気持ちが遠ざかる。
「それなら、もう少し」
「うん」
「今、喜んだでしょう」
「嬉しいよ」
彼女は笑った。彼の手が髪の下へ入り、後頭部をやさしく支えた。今度の口づけは額ではなかった。
朝食室には、小さな花束と、白い布を掛けた籠が置かれていた。
大きな祝いの夜会は、王都へ戻ってから両親も招いて行うことにしている。今日は二人で川辺へ行き、赤い帆の船を浮かべる。冬の間、よく日の当たる場所を調べ、入り江の浅い縁なら立ち入れるようになったと、庭師にも聞いていた。
籠の中には、蓋のついた器がいくつも入っていた。
「これは全部、お昼の分?」
「午後まで帰らなくても困らないように、と」
オーウェンの返事に、ミレイユは籠を覗き込み直した。
「二人分より多いわ」
「俺もそう言った」
「でも、減らさなかったのね」
「君が川へ行くと、腹が減ると言うかと思って」
ちょうどドリスが入ってきたので、ミレイユは何か言ってほしそうに侍女を見た。ドリスは彼女の前へ温かい皿を置き、にこやかに頭を下げる。
「お昼が余ったら、夕方にお召し上がりいただけます」
「わたくしが?」
「旦那様もご一緒に」
夫婦は顔を見合わせて笑った。
朝食を終える頃、オーウェンが小さな箱を彼女へ差し出した。
中に入っていたのは、金細工の髪留めだった。真ん中に薄い青の石があり、左右へ葉の形が伸びている。窓からの光にかざすと、葉の細い筋まで透けて見えた。
「きれい」
ミレイユが言うと、彼は満足そうに息を吐いた。
「よかった」
「自信がなかったの?」
「君が身につけるところを、見たかった」
その言い方で、石を眺めていた彼女の指が止まった。
「今日?」
「今日は川だ。王都へ戻ってからでも」
「今日にします」
彼女は立ち上がり、鏡のある隣室へ行った。ドリスに頼んで髪を結い直し、耳の上へ髪留めを挿してもらう。
戻ると、オーウェンはもう外套を手にしていた。
「似合う?」
彼女が顔を傾けると、彼は一度だけ頷いた。それから、外套を椅子の背へ戻す。
「せっかく急いだのに、何をなさるの?」
「よく見たい」
彼は彼女のそばへ来て、頬に触れた。髪留めを見ているはずなのに、視線がすぐ唇へ下りてくる。
「川へ行く時間がなくなるわ」
「そこまで長くはしない」
ミレイユは自分から背を伸ばした。彼の胸に指を添え、唇が離れたあと、わざと目を覗き込む。
「今夜は、ゆっくり見ていただいてもよくてよ」
彼が返事をする前に、彼女は椅子から自分の外套を取った。
別邸から川へ続く道には、まだ霜の残るところがあった。
荷物を載せた小さな馬車を先にやり、二人は途中から歩いた。冬の間に枝の形まで覚えた木々が、少しずつ芽を出している。夫が船を抱えているので、ミレイユはときどきその帆を支えた。
「わたくしが持つわ」
「この先で持ってくれ。門を開けたい」
彼は素直に船を渡した。ミレイユが受け取ると、赤い帆が頬の近くで揺れた。
木戸を抜けた先は、川の流れから少し外れた入り江だった。岸の内側へ水が回り、外へ向かう細い口のところに葦が茂っている。中央は流れも穏やかで、小さな船を浮かべるのによさそうだった。
昨年、この川へ連れてきてもらった頃より、水際の地面が固い。オーウェンは先に下り、滑りやすいところがないか足元を見た。それから彼女へ手を伸ばす。
ミレイユは船を彼へ渡し、空いた手で裾を持ち上げた。
「手を」
「はい」
彼の掌へ指を載せ、一段だけ下りる。歩きやすい靴の底が、平らな石をしっかり捉えた。
川向こうから鳥の声がする。先に着いていた従僕が、少し離れた木の下へ敷物と籠を置いてくれた。二人の昼食の準備を確かめると、彼は馬を連れて別邸へ戻っていった。
オーウェンは上流側へ向き直り、風を確かめた。
「こちらからなら、向こうの浅瀬へ行くと思う」
「戻ってこなくなったら?」
「向こう岸へ回って拾おう。水には入らない」
「あなたが靴を脱ぎだしたら、止めるつもりだったわ」
「俺を何歳だと思っている?」
ミレイユは彼の顔を見て、わざと考えた。
「船を持つと、少し若くなるわね」
彼は笑いながらしゃがんだ。ミレイユも隣に腰を下ろす。修繕した帆の縁を指で確かめると、彼が縫った一針は、まだ少し大きく曲がっていた。
「残っている」
彼が嬉しそうに言った。
「もちろん。わたくしの仕事を信用して」
「君の仕事は信用している。俺のほうを確かめた」
二人で帆の角度を少し変えた。彼女が船首を支え、彼が船底を水に触れさせる。
そっと手を離すと、小さな船は二人の前で揺れた。
赤い帆が、薄い日差しに明るく見えた。風が当たり、船が少し進む。ミレイユは息を詰め、それから思わず笑った。
「今日は、よく進むわ」
「俺の一針が効いたな」
「ほかの針目も、お忘れにならないで」
オーウェンも笑っている。船は彼女たちから数歩分離れ、そこで急に向きを変えた。帆がふくらまず、白い船体がこちらを向いたまま止まる。
「あら」
「風が変わった」
「戻っていらっしゃるのかしら」
ミレイユは水際で体を傾け、ふっと息を吹いた。届くはずもないのに、ついもう一度吹いてしまう。隣で彼が声を立てて笑った。
「あなたもなさると思うわ」
「俺なら、もう少し近いところで」
「水に入らないとおっしゃいました」
「もちろん、ここから」
彼が真面目な顔で身を屈め、息を吹いた。
帆は動かなかった。ミレイユは片手で口を覆った。彼が顔を上げるより早く、笑いがこぼれる。
「今のは、わたくしと何が違ったの?」
「少し、勢いがよかった」
「そうでしたわね。船は同じ場所ですけれど」
彼は片膝を立て、その上へ肘を置いた。ミレイユも隣で待った。
ほどなく、川面に細かな皺が寄った。帆が持ち上がり、船首がゆっくり回る。二人が黙って見守るうちに、船は向こう側へ進み始めた。
あまりに小さいのに、白い船体は水の上でよく目立った。浅瀬の少し手前で草に寄りかかるように止まると、ミレイユは立ち上がった。
「迎えに行きましょう」
オーウェンも立ち、彼女の裾についた枯れ草を払った。
「船に置いていかれたな」
「あなたが吹いても、待っていてくれたわ」
「それは、もう忘れてくれ」
入り江の岸を回り、乾いたところから船を拾い上げた。
裏返して布で水を拭き、日の当たる石の上へ置く。帰るまでに乾くだろう。赤い帆の裂け目は広がっていなかった。
ミレイユは手の土を払い、平たい小石を一枚拾った。
「こちらも、まだ上手にできるかしら」
「君は負けたことを、よく忘れる」
「勝ったことを覚えているのよ」
彼女は水際へ立ち、体を少しひねった。石は水面へ低く入り、二度跳ねて沈んだ。オーウェンが三度だったと言ったので、彼女は首を振った。
「二度よ。最後のは沈んだところ」
「厳しいな」
「自分の数も、同じように数えます」
彼も小石を選び、投げた。こちらは最初から水に入り、一度も跳ねなかった。
ミレイユが振り返ると、彼はもう次の石を選んでいた。
「今のは?」
「肩慣らしだ」
「では、わたくしの二度も数えないの?」
彼は困ったように彼女を見た。それがおかしくて、ミレイユは笑いながら次の石を拾った。
「いいわ。今から三回ずつにしましょう」
「勝ったほうは?」
「お昼のいちばんよい場所に座る」
敷物を広げた木の下には、暖かい日向と、まだ少し寒そうな木陰があった。彼はそのほうを見て、頷いた。
「分かった」
今度は本当に三回ずつ投げた。
一投目は二人とも一度。二投目は彼が三度で、彼女が二度。ミレイユは最後の石を慎重に選んだ。手の中で裏返し、端の薄さを確かめる。彼はそんな彼女を見ていた。
「見ていると、投げにくいわ」
「君が投げるところを見ないと、数えられない」
「石だけ、見てください」
「努力する」
彼女は口を引き結び、投げた。
一、二、三。四度目の小さな跳ね方を、見落とさないように目で追った。石はそこで沈んだ。オーウェンが笑いながら四本の指を立てる。
彼の三投目は二度だった。
「わたくしの勝ち」
「ああ。今日は強かった」
彼女は両手を軽く広げ、そのまま彼へ近づいた。
「褒め方が、少し物足りませんわ」
「見事だった。俺が花嫁にした人は、石を投げても強い」
「そういう褒め方が欲しいのではありません」
オーウェンが肩を揺らす。ミレイユは彼の外套の袖をつかみ、彼の顔を自分のほうへ下げた。
彼はすぐ意味を察して、彼女の腰へ手を添えた。口づけられる寸前、彼女は背伸びをやめた。
「勝ったわたくしから、してあげます」
「それなら、じっとしている」
約束どおり、彼は動かなかった。彼女の唇が触れると、ようやく腕に力がこもった。
冷えていた鼻先が、彼の頬に当たる。ミレイユは笑って少し顔を離したが、彼の腕からは抜けなかった。
昼食のいちばんよい場所には、結局二人で座った。
彼女が日向を選び、その隣を彼へ勧めたからだ。オーウェンが籠から器を取り出し、ミレイユは布を広げた。肉を挟んだパンは柔らかく、温かい飲み物の器を手に持つと、指先までじんと温もった。
「お腹は?」
彼が尋ねる。
「空いています」
「では、持ってきたかいがあった」
彼女はパンを食べ終え、次の包みを開けた。中には小さな甘い菓子が並んでいた。数えかけてやめ、夫へ一つ渡す。
「あなた、春が終わったら少し王都を離れたいとおっしゃっていたでしょう」
「海のほうへ行く話?」
「ええ。どんなところに行きたいの?」
オーウェンは口の中の菓子を飲み込み、川の向こうを見た。
「街から離れた海岸だ。少し高い丘があって、朝に海がよく見えるそうだ」
「朝?」
「うん」
ミレイユは夫をじっと見た。彼は彼女の視線に気づき、眉を上げる。
「何?」
「起きられるかしらと思って」
「そのときは起きる」
「わたくしも、海より寝台のほうがよく見えるかもしれないわ」
彼が笑った。
「それなら、何日か泊まろう。一度くらいは起きられる」
「見逃したら翌日も、ということ?」
「君となら、しばらくいてもいい」
彼女は少し考え、器を両手で包んだ。
「では、わたくしは昼間に行きたいところを探しておくわ。あなたが朝起きられなくても、楽しく過ごせるように」
「容赦がないな」
「早起きできたら、一緒に丘へ行きます」
彼は彼女の肩へ腕を回した。ミレイユは体を寄せ、器を片手に持ち替える。
川向こうに、まだ歩いたことのない道が見えた。白い柵の先で曲がり、木立の間へ消えている。別邸へ何度も来て、結婚してからも長く泊まっているのに、道の行く先は知らなかった。
「あちらは、どこへ続くの?」
「小さな牧場だ。奥まで行くと丘へ上がれる」
「あなたは行ったことがある?」
「冬に一度。羊の囲いを直していた」
「わたくしも行ってみたい」
「今日?」
彼女は首を振った。
「明日。今は、まだここがいいの」
オーウェンは頷いた。彼女の手から空いた器を受け取り、倒れないところへ置く。
ミレイユは彼の肩に頬を載せた。片方の耳へ日差しが当たり、贈られた髪留めが少し温かい。
「あなたの行ったところ、全部知っているような気になっていたわ」
「俺も、君が同じ布屋へ三度も足を運べることは知らなかった」
「二度よ」
「翌日、俺と行って三度だ」
彼女は夫の腕をつねるふりをした。彼は少しも避けず、その手を捕まえて口づけた。
「海へ行ったら、店を見る時間を十分に取ろう」
「あなたのお買い物もね。わたくしのものばかりではつまらないわ」
「君が選んでくれる?」
「ええ。まずは、朝、寒くない外套かしら」
「そんなに起きられないと思うのか」
ミレイユは彼の胸へ顔を寄せて笑った。
日が少し傾いてから、二人は荷物をまとめた。
船はすっかり乾いていた。ミレイユが持ち上げると、赤い帆が風を受けて鳴った。彼女は白い船体を掌で包み、オーウェンへ向ける。
「今日の船長は、わたくしでよろしい?」
「石投げの勝者だから?」
「誕生日だから」
「それは強いな」
彼が籠を持った。ミレイユは船を胸の前へ抱え、彼の隣を歩いた。
木戸へ着くと、今度は彼女が先に手を伸ばした。掛け金を外す間、オーウェンが後ろから船を支えてくれる。彼女は振り返り、その近さに笑った。
「オーウェン。今夜、髪留めをよく見たいのだったわね」
「覚えている」
「外すところまで、お願いしてもよいかしら」
彼の手が船から彼女の手へ移った。
「それなら、早く帰ろう」
「まだ夕方よ」
「君が言ったんだ」
彼女は木戸を開けた。先へ出た彼が振り返って待つので、船を片手で抱え直し、その腕へ自分の腕を絡めた。
「では、帰りは少し急ぎましょう」
彼の歩幅が変わった。ミレイユも笑いながら、半歩だけ大きく足を出した。