ブルーヘヴンの彼方に

「若葉ちゃん」
「え?」
「改めて。誕生日、おめでとう」
「あ、ありがとう」
 僕はスタジオの中をちらっと見回した。

 そして若葉ちゃんの腕を引き、音響機材の置かれたテーブルの陰へ屈み込む。
 よし。
 ここなら人目につかない。

 多分。

「え、エディさん……」
「ちょっと失礼」
 そのまま、彼女を抱き寄せる。
「――ッ」
 両手で頬を包むと、緊張しているのか少し強張った。

「あ、あの……」
「うん?」
 言葉を続けるより先に。
 僕は、いつもより深く口づけた。

 柔らかな唇。
 時折漏れる甘い吐息。

「若葉ちゃん……」
「エディ、さん……」

 一度箍(たが)が外れると、どうにも自制が利かなくなるらしい。

 もっと。
 もっと欲しくなる。
 まだ足りない。
 もっと。
 彼女を感じていたい。

「好きだよ」
「私も……好き」

 甘いひと時。
 ほんの束の間。
 でも、これ以上は危険だ。
 場所も悪い。
 だけど。

 最高にドキドキした。

「今夜、もう少し一緒にいない?」
「……うん」

   *

 スタジオを出た後。
 僕は若葉ちゃんを連れて、芹山駅近くのスカイホテルへ向かった。
「あ、ここって……展望レストランの」

 バースデーディナー。
 学生の身分で来るには、少々生意気だっただろうか。
 今になって――
 これでよかったのかな。
 スベったらどうしよう。
 そんな不安が押し寄せる。

 僕自身、こんな店には慣れていない。
 もっとカジュアルなところの方がよかったんじゃないか。
 そんなことを考えても、もう遅い。

「そう。何か気合い入っちゃってさ。実は今日の音合わせより、こっちが本番だったっていうね」
「え、そうなの? ありがとう。こんなふうにしてもらったの、初めてだから嬉しいわ」

 ああ。
 やっぱり連れてきてよかった。
 そういう気持ちにさせてくれる人だからこそ、大切にしたい。
 彼女の前では、少しくらい格好つけたい。
 そんな男の性も。
 きっと彼女なら、笑って受け止めてくれる。
 そう思えた。


 展望レストラン直通のエレベーター。
 中には、僕と若葉ちゃんの二人きり。
 ガラス張りの壁面の向こうに、夜景が広がっている。
 地上何メートル、という表示がガラスに反転して映った。

 上昇するスピードが、思ったより速い。
(うわ。結構高いな……)
 わかってはいた。
 わかってはいたけど。

 クラクラする。
 実は僕。

 高所恐怖症だったりする。

 でも、若葉ちゃんのためなら何のその。

(ヤバい。膝がガクガクしてきた)

 本来なら、最高にロマンチックな場面のはず。
 目の前には綺麗な夜景。
 シチュエーションとしては文句なし。
 ただし。
 完全に僕個人の問題で台無しになりかけている。

 実にダサい。
(早く……早く着いてくれ)

 そういえば。
 若葉ちゃんは平気なんだろうか。
 さっきから、ずっと扉の方を向いている。

「若葉ちゃん?」
「……」
「大丈夫? あの、まさかだけど……」
 嫌な予感。


「ごめん、なさい……」
「いや。僕の方こそ……何かごめん」

 とんだ盲点だった。

「あ、でも……怖いのは外の景色が見えるからで。普通のエレベーターは平気なの。着いちゃえば大丈夫」
「あ、それわかる。ていうか実は、僕も高いとこ苦手でさ」 「え! じゃあどうして展望レストランを?」
「うーん。だって夜景見ながらディナーなんて、最高のシチュエーションじゃない?」
「そ、それはそうだけど……」

 最高のシチュエーションにこだわった結果。
 そこへ辿り着くまでの工程を完全に見落としていた。

「まあ、とりあえず着いたから。ディナー楽しもう」
 ふかふかの絨毯を踏みしめながら、若葉ちゃんの手を取り、案内された席へ向かう。

 夜景がよく見える、窓際の席。
「夜景、綺麗ね」
「うん。さっきはそれどころじゃなかったしね」

 高所恐怖症二人。
 揃いも揃って、展望レストラン。


「遠目に見てれば平気だよ」
「足元が透けて見えるようだったら、私無理だったかも」 「ああ、それは僕も無理だわ」

 まだまだ知らない。
 彼女のこと。
 僕のこと。
 知るたびに、もっと惹かれていく。

 恋がいつか愛になって。
 そんな漠然とした未来しか描けなかったけれど。
 恋をするだけで、些細な一瞬がこんなにも鮮やかになる。
 それを知った。
 彼女が僕にとって運命の相手なのか。
 そんなことは、今はまだわからない。
 だけど。

 今この瞬間、一緒にいられることが幸せだ。
 もしこれから。
 何年も。
 何十年も。
 時間をかけて互いを知っていける相手になれるなら。
 ありのままの僕でいよう。
 そして。

 ありのままの彼女を、受け容れよう。
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