きみが待つ空へ ~敏腕パイロットは命をかけて愛を守る~

2 雨空の再会

 早朝の羽田の上空は荒れていた。
 窓に叩きつけられた雨が斜めに吹き飛んでいくところを見ると、風も相当強い。
 時折起こる横揺れやアップダウンに、ツアーのお客様たちもさぞ不安だろうと思いつつ、飛行機に乗ってしまえば、私も、いち乗客だった。
 ザッ、ザザッ――。
 天井のスピーカーから短いノイズが流れたあと、落ち着いた声が機内に響いた。
「皆様、機長の佐藤です。当機は、ただいま着陸に向けて降下を続けております。空港周辺は天候が不安定なため、今後、機体が揺れることが予想されます。安全のため、シートベルトをお締めください。状況を確認しながら慎重に着陸いたします。どうぞご安心ください」
 この機のパイロットの技量が高いことを祈りながら、雨で霞む滑走路を見つめる。
 機体は吹きつける風に押され、絶え間なく揺れる。
 機首と滑走路の向きがずれたまま、高度を下げていく。
 大丈夫なのだろうか。
 着陸直前。
 機首が滑走路の向きにスッと揃ったと同時に、車輪が接地する衝撃があった。
 体感では、晴れた日とほぼ変わらない着陸だ。
 エンジンが低くうなりながら、減速していく。
 私は安堵の息を吐いた。
 どうやら、私たちは腕のいいパイロットに恵まれたらしい。

 早朝の羽田空港で、ツアーは解散になった。
 到着ロビーでお客様たちを見送り、何事もなく……とはいかなかったものの、無事に終えられたことに胸を撫でおろす。
「東亜ツアーズ」の旗をバッグに差し入れて、帰ろうと通路を歩き始めた時だった。
 向こうからパイロットの制服を来た男性二人を先頭に、数人のキャビンアテンダントが続いて歩いてくる。
 空の世界の花形ともいえる一団は颯爽としていて、ひと際目を引いた。
 一瞬彼らに視線を惹きつけられるも、空港では見慣れた景色だ。
 そのまま通り過ぎようとした。
 と、すれ違いざま、キャスター付きのケースを引いていたパイロットの一人が足を止めた。
「香坂さん、ですよね」
 不意に名前を呼ばれ、振り向く。
 その人は、後ろに続く人たちに先に行くように声を掛けると、私に向き直った。
「……佐藤さん?」
 見間違えるはずもない。フランスで会った、あの人だった。
 どうしてパイロットの制服を?
 肩には機長を示す金色の四本線。胸元には東亜航空のウイングバッジ。
 まさか、この人がパイロットだったなんて。
 驚きながらも、ふと、あることに気付いた。
 待って。
 彼も私も昨日はパリにいた。そして今、日本にいる。
 と、いうことは、私が乗ってきた飛行機を操縦していたのは佐藤さんだったの?
 強風の中、聞こえたアナウンス。機長は「佐藤」と名乗っていたような。
 よくある名字で、気にも留めなかった。
「……さか、さん。香坂さん?」
 頭をフル回転させて、状況を把握しようとしすぎたあまりに、放心状態に見えたらしい。
 気付けば、佐藤さんが困惑したような顔で私を覗き込んでいた。
「あっ、すみません。まさか、こんな形でまたお会いできるとは思わなくて。東亜航空のパイロットでいらしたんですね」
「驚かせてしまってすみません。パリのホテルで、名刺をお渡ししようかとも思ったのですが……」
 彼は言葉を選ぶように間を置いた。
「ビジネスシーンでもないのに、いきなり仕事の名刺を差し出すのも気が引けてしまって」
 パイロットという華やかな肩書がありながら、それを誇示することなく、ただ、落とし物を届けるひとりの人として振る舞ってくれた、そんな彼の控えめな人柄が好ましかった。
「でも、同じグループの社員ですし、お互いに空港を頻繁に利用する立場でもありますから、きっとまたお会いできるだろうと思っていました」
 言うと、佐藤さんは私のバッグに視線を落とした。
「それに、その『東亜ツアーズ』の旗を目印にすれば、あなたを見つけられるだろうと思いまして」
 彼が、バッグから突き出した旗の柄を指し示す。
「あははは。そうです。いつでも、どこでも、この旗を上げて、大きな声でお客様に話していますから」
 佐藤さんも声をたてて笑った。
「よかったです。会えて」
 想像していたより、気さくな人だった。
 こうして一緒に笑っていると、フランスで出会ったときよりも親しくなれたような気がして、少し嬉しかった。

「ああ、よかった。いたいた、香坂さん」
 振り向くと、さっき見送ったはずのツアーのお客様が、ご夫婦でこちらに向かって来た。
「どこかに傘を売っているお店はないですかね?」
 困ったように旦那様が尋ねた。
「傘、ですか」
 窓の外に目を向けると、雨はまだ激しく降り続いている。
 お話を聞けば、傘はご自宅に忘れてきたらしい。
 ツアー中は晴天で傘要らずだったのに、最後に降られた、いやあ、参ったと70歳を超える旦那様は笑っている。
 佐藤さんは気遣うように身を引き、通路の端に寄った。
 早朝の羽田空港では、まだ開いていない店も多い。傘を買えそうな店を教えようとして、思いとどまった。
 奥様は膝が悪く、ツアー中も、長時間の散策は辛そうだった。
 大きなスーツケースを引いて、広い空港の中を歩くのは大変だろう。
「あの、よかったら私の傘を使ってください。お返しくださらなくて構いません」
「いやいや、それでは香坂さんが困るでしょう」
「大丈夫です。家、わりと近くなんですよ」
 嘘だった。
 少しでも節約したくて家賃の安さを優先して決めたアパートは、最寄りの駅からも遠い。
 それでも、お二人を見過ごすことはできなかった。
 半ば押し切るように傘を渡すと、ご夫婦は恐縮しながらお礼を言って去っていった。

「それで、きみはどうするの?」
 少し離れた壁際で一部始終を見ていた佐藤さんが、私に歩み寄ってきた。目深にかぶっていた制帽のつばを、指先で軽く上げる。
「えっと……駅から走るしかないかなあと」
 答えながら、声が小さくなる。自分がどうするかなんて、すっかり頭から抜け落ちていた。
「もう、ツアーは解散になっただろう?」
「そうですけど……」
 私はご夫婦が歩いて行った方に目を向けた。
「お客様の旅は無事ご自宅に帰るまで続いています。せっかく楽しい旅行をしていただいても、最後に困った思いをなさったら残念です。お客様には、気持ちよく旅を終えていただきたいんです」
 佐藤さんはしばらく何も言わなかった。やがて、笑みを浮かべる。
「……素晴らしいホスピタリティだね」
 目元を和らげた彼は、優しいまなざしで私を見つめた。
「ここで待っていて。送るよ」
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