きみが待つ空へ ~敏腕パイロットは命をかけて愛を守る~
私服に着替えた佐藤さんのあとについて空港の乗降場所に行くと、黒塗りのリムジンが停まっていた。
傍らには、スーツ姿に白手袋をつけた運転手が立っている。
佐藤さんを見つけると、運転手は丁寧に一礼した。
「どうぞ」
後部座席のドアを開けられ、戸惑う。
これに乗れ、と?
いくらパイロットとはいえ、運転手付きの車で送り迎えなどしてもらえるものなのだろうか。
促されるまま車に乗り込むと、佐藤さんの隣に腰を下ろす。
ドアが閉まった途端、空港のざわめきが遠のいた。
しっとりとした革張りのシートに背中を預ける。
「そういえば、まだきちんと名乗っていなかったね。俺は、佐藤颯(さとう・はやて)。あらためて、よろしく」
「香坂美桜と申します。佐藤さんには、助けていただいてばかりで……」
「いや、たいしたことはしていないよ」
佐藤さんが軽く笑って、首を振った。
「きみは、添乗員になって長いの?」
「海外添乗は5年目です。入社した頃は国内ツアーを担当していたんですけど、海外が好きで、希望を出して今の仕事に移りました」
「そうだったんだ。どうりでトラブルにも動じないわけだ」
「動じてますよ。毎回、心臓はバクバクです」
「そうは見えなかったよ?」
「添乗員が動揺するとお客様も不安になってしまいますから、必死に堪えています」
大げさに肩を竦めて見せる。
「よくわかる。パイロットも同じだ」
「何百人ものお客様の命を担っていらっしゃいますものね。失礼ですが、機長さん……ですよね。若いのにすごいなと思って」
制服の肩に入った金の4本線を思い出す。30代前半くらいで、その職につくのが珍しいことは、私でも知っている。
「早く、自分の責任で飛びたいって思ったんだよ。どうしても。それで、がむしゃらだった」
さらりと話す横顔には、積み重ねてきた時間への静かな自負が感じられた。
何でもそつなくこなしそうに見えるけれど、見えないところで努力を重ねてきた人なのだろう。
佐藤さんは相槌も巧みで、さりげなく話を広げてくれた。心地良さに、私はすっかりおしゃべりになっていた。
雨はやみ、窓の向こうの空は白み始めていた。
やがて、見覚えのある通りに入った。
あと、5分もすれば私のアパートに着くだろう。
「あの、佐藤さん、ひとつお尋ねしてもいいですか」
「もちろん」
「パリで、どうして直接ホテルにバッグを届けてくださったんですか。パリ支店からは、東京本社のほうから連絡があったと聞いていて……」
気になっていたことだった。
「ああ、あのときは、俺が東亜ツアーズの社長に連絡したんだ。事情を説明して、ちょうど自分もパリにいるからホテルを教えてくれれば、直接届けるって」
いくら東亜航空と東亜ツアーズが同じグループでも、いちパイロットの佐藤さんがうちの社長に連絡が取ることができるものだろうか。
「そう、でしたか」
頷いたものの、疑問は残った。
この人はただのパイロットではないのかもしれない。
「あの、佐藤さんって……」
言いかけたところで、リムジンがアパートに横付けされた。
聞きそびれたことを残念に思いながら、シートベルトを外す。
どのみち、彼を深く知る必要はない。連絡先を尋ねるほど親しくなったとも思えない。
もともと私とは住む世界が違う人だ。
楽しい時間は、これで終わりだ。
「ありがとうございました」
お礼を言って、ドアを開けようとすると、呼び止められた。
「香坂さん」
振り向くと佐藤さんが、言葉を選んでいるのか、瞳を揺らしている。
「……また、きみと会いたい。連絡先を聞いたら、迷惑だろうか」
思いがけない言葉に、目をしばたたく。
佐藤さんが、また私と会いたいと思ってくれているなんて。
心臓の拍動が早くなる。
どうしよう。
多くを望んでいるわけではない。
ただ、この人との縁がこれきりでなく、また会えるのなら。
「……迷惑なんかじゃありません。私も、またお会いできたら嬉しいです」
答えると、彼の表情が和らいだ。
「よかった」
私たちは、スマホを取り出し、連絡先を伝えあった。
「じゃあ、また連絡する」
「はい。楽しみにしています」
車を降りると、朝の空気がひんやりと頬に触れた。
街が目覚め始めていた。
淡い色の朝陽が、夜の名残を溶かしていく。
黒いリムジンが走り去るのを見送りながら、私は、スマホの画面に目を落とした。
佐藤颯――。
液晶の名前を、そっと読み返す。
次に会えるのはいつだろう。
別れたばかりなのに、もう会いたい。
そんな自分に気づいて、私は小さく苦笑した。