きみが待つ空へ ~敏腕パイロットは命をかけて愛を守る~

3 近づくほどに

「ちゃんと私がジャッジしてあげるから!」
 愛実(まなみ)が、私の目の前で、立てた人差し指を揺らした。
「やめてよ。いいって」
「何言ってるの。美桜ってば仕事ばかりで、何年、男日照りが続いたと思ってるのよ。やっと浮いた話が巡ってきたんじゃない。どんな男か、私が見てあげる」
 愛実とは、旅行系の専門学校で出会って以来の親友だ。
 私が東亜ツアーズの添乗員、彼女が東亜航空のキャビンアテンダントになってからも、同じグループ会社に勤める縁で付き合いは続いている。
 佐藤さんとは、なかなか会える時間がとれなかった。
 彼は世界中を飛び回るパイロットで、私もまた一か月の半分以上は日本にいない。
 仕事の合間のわずかな時間でも会えないか、と佐藤さんが提案してくれたのが、ここ、羽田空港の展望デッキだった。
 お互い、二時間後にはこの滑走路からそれぞれの地へと飛び立たなければならない。
 今日のこの約束について話すと、愛実の好奇心が一気に爆発した。
「東亜のパイロットなんでしょ、佐藤さんって人。パイロットって言っても、タチが悪いのもいるんだから」
 そう言って愛実は「一目だけ見たら帰るよ」と、わざわざ展望デッキまでついてきたのだった。
 時計が午後2時を指そうとする頃、佐藤さんの姿が見えた。
 紺のジャケットに白シャツを合わせた清潔感のある服装だ。
 遠目に見ても背が高く、すっと伸びた姿勢に自然に目が行く。
「愛実……あの人だよ」
 小声で言うと、視線を向けた愛実の表情がみるみる変わった。
 佐藤さんが私に気付き、片手を上げて近づいてくる。
 すると、突然、愛実が私の前に躍り出た。
「はっ、はじめまして、颯キャプテン。私、東亜のCAです。お目にかかれて光栄です。美桜とはハタチのころからの友人で。ほんっと、いい子なんでよろしくお願いします!」
 勢いよく頭を下げる愛実に、私は目を白黒させた。
 愛実は軽く私の腕を引っ張って、耳元で囁いた。
「ちょっと、どういうこと? パイロットの佐藤って……なんで佐藤颯ってちゃんと言わないのよ」
「え、だって」
「佐藤颯! 東亜グループの会長の息子で、次期会長とも言われている人よ。本人の希望で、今は東亜航空のパイロットをしているの。しかも、操縦の腕は超一流。32歳で機長なんて異例の早さよ。もちろん独身。あれだけの人なのに、誰にもなびかないって有名なの。CAの間じゃ、彼を知らない人はいないんだから!」
 そこまで早口でまくしたてる愛実の背後から、軽い咳払いが聞こえる。
 佐藤さんだ。
「あとで、いろいろ報告してよね。頑張って」
 愛実は私の肩を二度叩くと、佐藤さんに会釈をして立ち去った。
「……」
「……」
 取り残された私たちは、ふたりで黙り込んだ。
 最初に口を開いたのは、彼のほうだった。
「俺の素性については、もう話す必要はなさそうだね。訂正したいところはあるけれど、ほぼ、きみの友人が言ったとおりだ」
「……やっぱり、すごいかただったんですね」
 運転手付きのリムジンも、パリのホテルにバッグを届けてくれたことも、今なら納得がいく。
 東京本社の社長に直接連絡できたのは、彼が東亜グループの創業者の跡継ぎとして知られていたからだ。
 ……私は、知らなかったけれど。
「すごい人間なんかじゃないさ、俺は」
 佐藤さんは、展望デッキの金網に近づき、滑走路を見下ろした。
 エンジン音を響かせて次々と飛び立っていく飛行機を、目で追っている。
「ただ、空が好きなだけの人間だ」
 飛び立つ機体を見送る横顔はどこか寂し気だ。
「でも……もうパイロットも辞めなければならない。今は、そのタイミングを考えている」
 驚いて、傍らに立つ彼を見上げた。
「親に、そろそろ経営側の仕事に専念するように言われていてね」
「そんな……」
 以前、機長になったのは、早く自分の責任で空を飛びたかったからだと話してくれた。
 彼にとって、空を飛ぶことは何よりも大切なことなのだ。
 私だったら、好きな仕事を簡単に諦められるだろうか。
「仕方ない。いつかは俺が経営者にならなければならないのは、もう決まっていることだから」
 佐藤さんは笑おうとしたようだったけれど、細めた目は静かに伏せられた。
 東亜グループは、航空、鉄道、ホテルなど、旅行に関わる事業を幅広く展開する巨大な組織だ。
 そのトップに立つということは、多くの社員の生活と、グループの未来を背負うことでもある。
 彼には、彼にしか引き受けられない責任があるのだろう。
「ごめん。つい、愚痴を話してしまった」
「いいえ」
 私は首を横に振った。
「今は……空をたくさん楽しんでください。社員としては、佐藤さんのように空を飛ぶ楽しさも、旅の喜びも、身をもってご存知のかたがトップにいてくださるなら安心です。きっと、社員にもお客様にも信頼される会長になられると思います」
 同僚や、出会ったお客様たちの顔を思い浮かべる。
 いつか、彼が皆を守ってくれる立場になるのだと思うと、心強い。
「ありがとう。そう言ってもらえると、少し気持ちが楽になるよ」
 佐藤さんは、柔らかく微笑む。
「それにしても、お互いに空いている日が見事に合わないな」
 間を置いて、佐藤さんが苦笑した。
「ですね」
「どうだろう。きみがいる街に、俺が行くというのは?」
 意外な提案に、すぐには意味が理解できなかった。
「ツアー中でも、お客様がホテルに落ち着いたら、香坂さんだって食事にくらい出るだろう? お客様のフリータイムが長いなら、お茶の一杯くらい飲める日もあるんじゃないかな」
「ええ、まあ。あくまでお客様優先で、短時間なら」
「じゃあ、決まりだ。今後、きみが行く予定の街を教えて。できる限り俺のフライトを合わせる」
「あの、それって……職権乱用っていうものでは?」
 思わず、疑うような声になった。
 彼がそんなことをする人だとは思わないけれど、次期会長と目される人の希望なら、周囲が特別な配慮をするかもしれない。迷惑はかけられない。
 ところが、佐藤さんは楽しそうに肩を揺らした。
「人聞きが悪いな。運航計画を無理矢理変更させるわけじゃない。希望を申告するだけだ。珍しいことじゃないから心配は要らない」
 ならば、と私は頷く。
 心は、浮きたっていた。
 ――異国の街で、彼に会えるかもしれない。
 石畳の続くヨーロッパの街角で。
 摩天楼が天を衝く大都会で。
 彼もまた、この出会いを大切に思ってくれているのだろうか。
 滑走路を離れた飛行機が、また一機、澄んだ空へと飛び立っていく。
 あの翼が向かう先の空に、彼と並んで歩く街があると思うと、私は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
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