きみが待つ空へ ~敏腕パイロットは命をかけて愛を守る~
佐藤さんと世界で最も有名と言われる美術館で待ち合わせをしたのは、フランス周遊ツアーも終盤となった、午後7時だった。
ツアーのお客様はパリ市内のホテルに入られ、今日のご案内は終わっている。
夜のパリを軽く散策するものだと思っていたのに、彼は受付へと進んでいった。
「Bonsoir. J’ai une réservation au nom de Hayate Sato.」
流ちょうなフランス語に、思わず彼の横顔を見上げた。英語ができるだろうとは思っていたけれど、まさか、フランス語も話せるなんて。
「夜間のプライベート鑑賞の手配をしたんだ。ガイドも付くから、この美術館のことを何でも質問してみるといい。通訳は俺がする」
「プライベート、鑑賞?」
「東亜グループは、世界の主な美術館の文化事業も支援している。協賛企業向けの鑑賞プログラムに申し込んだだけだよ」
彼はまるで、レストランを予約したとでもいうように、さらりと言った。
入場料を払おうとして出した財布を開ける手が止まった。
私の持ち合わせでは、この特別な時間を買うことなどできそうにない。
「行こうか」
ためらいもなく、手のひらが差し出された。
どうしよう。
手をとっていいのだろうか。
おずおずと手を重ねると、彼の温もりが伝わってきて、胸が跳ねた。
館内に足を踏み入れると、静けさの中に、広々とした展示室が続いている。
普段なら、幾重にも重なる人の向こうに見える名画も、驚くほど間近で鑑賞できた。
しかも、専属のガイドが見どころを詳しく説明してくれる。
こんな経験はそうそうできるものではない。
お客様に紹介できる話が増えることが嬉しくて、私は夢中でメモをとった。
「美桜さん」
不意に呼ばれて顔を向けた。
「……って呼んでもいいかな」
佐藤さんが、人差し指で頬を掻きながら言った。
一瞬驚きながらも「はい、もちろんです」と頷く。
自分の名前なのに、佐藤さんが口にすると、甘く、心地よく響くのが不思議だった。
「俺のことも、名前で呼んで欲しい。佐藤ってありふれた苗字だろ? みんな俺を名前で呼ぶから、気軽な気持ちで呼んでくれていいよ」
「颯さん……ですか」
「ああ、そのほうが嬉しい」
名前で呼び合うだけで、二人の距離が近づいたような気がした。
2時間ほど館内を巡り、美術館近くのカフェに腰を下ろした。
「完全に仕事モードだったね」
喉を鳴らして、颯さんが笑う。
テーブルの上には文字がびっしり書き込まれたメモ帳が開いている。
「すみません。お客様のお役に立ちそうな情報がたくさん過ぎて、つい」
「かまわない。きみはいつも、お客様第一だ」
颯さんが、テーブルに頬杖をついて私を見つめた。
「……でも、俺は、デートのつもりだったよ?」
「え?」
魅惑的な瞳がまっすぐに向けられて、どんな風に返していいかわからない。
不意にスマホが着信を告げた。
液晶には、お客様の名前が映っている。
「はい、香坂です。……えっ、お湯が出ない?」
応答した私の隣で、颯さんが声を抑えて笑っている。
「わかりました。10分ほど、お時間いただけませんか。すぐにお部屋に伺います」
颯さんは事情を察してくれたようだ。
「急ごう。ホテルまで送る」
椅子から腰を浮かせた私の手に、颯さんの手が重ねられた。
「美桜さん。どこかの街で、また会おう」
その言葉が嬉しくて、深く頷く。
パリの夜は華やかで、街路を彩る灯りはまばゆいばかりだった。
彼のさりげない優しさも、穏やかな笑顔の奥にある聡明さも、仕事に誇りを持つ姿も、知るほどに、私の心を惹きつける。
次に颯さんに会える日が待ち遠しい。
私はたぶん、彼に――恋をしている。
次の添乗先のバルセロナでは、颯さんのフライトの調整がつかず、会えなかった。
ニューヨークのセントラルパークを訪れ、一緒にコーヒーを飲んだ時も、お互いのスケジュールが立て込んでいて、会えたのは一時間にも満たなかった。
それでも、私たちはわずかな空き時間を合わせては、ローマのスペイン階段の近くの店でジェラートを食べ、スイスのレマン湖のほとりを散策し、フランクフルトで木組みの家々を並んで見上げた。
颯さんは、私を悪く思ってはいないのだろう。
こうして、国境を超えて会いにきてくれるのだから。
けれど、彼にとって私は、友人のひとりに過ぎないのかもしれないとも思う。
いつかは興味を失われ、会えなくなる日が来るのが怖かった。
世界の街々で会うたび、私は彼ともっと一緒にいられたらと願うようになっていた。
でも、期待してしまえば、思い通りにならなかったとき、きっと今よりつらくなる。
……今のこの瞬間があるだけで十分って思わなくちゃ。
私は自分に何度も、そう言い聞かせた。
ツアーのお客様はパリ市内のホテルに入られ、今日のご案内は終わっている。
夜のパリを軽く散策するものだと思っていたのに、彼は受付へと進んでいった。
「Bonsoir. J’ai une réservation au nom de Hayate Sato.」
流ちょうなフランス語に、思わず彼の横顔を見上げた。英語ができるだろうとは思っていたけれど、まさか、フランス語も話せるなんて。
「夜間のプライベート鑑賞の手配をしたんだ。ガイドも付くから、この美術館のことを何でも質問してみるといい。通訳は俺がする」
「プライベート、鑑賞?」
「東亜グループは、世界の主な美術館の文化事業も支援している。協賛企業向けの鑑賞プログラムに申し込んだだけだよ」
彼はまるで、レストランを予約したとでもいうように、さらりと言った。
入場料を払おうとして出した財布を開ける手が止まった。
私の持ち合わせでは、この特別な時間を買うことなどできそうにない。
「行こうか」
ためらいもなく、手のひらが差し出された。
どうしよう。
手をとっていいのだろうか。
おずおずと手を重ねると、彼の温もりが伝わってきて、胸が跳ねた。
館内に足を踏み入れると、静けさの中に、広々とした展示室が続いている。
普段なら、幾重にも重なる人の向こうに見える名画も、驚くほど間近で鑑賞できた。
しかも、専属のガイドが見どころを詳しく説明してくれる。
こんな経験はそうそうできるものではない。
お客様に紹介できる話が増えることが嬉しくて、私は夢中でメモをとった。
「美桜さん」
不意に呼ばれて顔を向けた。
「……って呼んでもいいかな」
佐藤さんが、人差し指で頬を掻きながら言った。
一瞬驚きながらも「はい、もちろんです」と頷く。
自分の名前なのに、佐藤さんが口にすると、甘く、心地よく響くのが不思議だった。
「俺のことも、名前で呼んで欲しい。佐藤ってありふれた苗字だろ? みんな俺を名前で呼ぶから、気軽な気持ちで呼んでくれていいよ」
「颯さん……ですか」
「ああ、そのほうが嬉しい」
名前で呼び合うだけで、二人の距離が近づいたような気がした。
2時間ほど館内を巡り、美術館近くのカフェに腰を下ろした。
「完全に仕事モードだったね」
喉を鳴らして、颯さんが笑う。
テーブルの上には文字がびっしり書き込まれたメモ帳が開いている。
「すみません。お客様のお役に立ちそうな情報がたくさん過ぎて、つい」
「かまわない。きみはいつも、お客様第一だ」
颯さんが、テーブルに頬杖をついて私を見つめた。
「……でも、俺は、デートのつもりだったよ?」
「え?」
魅惑的な瞳がまっすぐに向けられて、どんな風に返していいかわからない。
不意にスマホが着信を告げた。
液晶には、お客様の名前が映っている。
「はい、香坂です。……えっ、お湯が出ない?」
応答した私の隣で、颯さんが声を抑えて笑っている。
「わかりました。10分ほど、お時間いただけませんか。すぐにお部屋に伺います」
颯さんは事情を察してくれたようだ。
「急ごう。ホテルまで送る」
椅子から腰を浮かせた私の手に、颯さんの手が重ねられた。
「美桜さん。どこかの街で、また会おう」
その言葉が嬉しくて、深く頷く。
パリの夜は華やかで、街路を彩る灯りはまばゆいばかりだった。
彼のさりげない優しさも、穏やかな笑顔の奥にある聡明さも、仕事に誇りを持つ姿も、知るほどに、私の心を惹きつける。
次に颯さんに会える日が待ち遠しい。
私はたぶん、彼に――恋をしている。
次の添乗先のバルセロナでは、颯さんのフライトの調整がつかず、会えなかった。
ニューヨークのセントラルパークを訪れ、一緒にコーヒーを飲んだ時も、お互いのスケジュールが立て込んでいて、会えたのは一時間にも満たなかった。
それでも、私たちはわずかな空き時間を合わせては、ローマのスペイン階段の近くの店でジェラートを食べ、スイスのレマン湖のほとりを散策し、フランクフルトで木組みの家々を並んで見上げた。
颯さんは、私を悪く思ってはいないのだろう。
こうして、国境を超えて会いにきてくれるのだから。
けれど、彼にとって私は、友人のひとりに過ぎないのかもしれないとも思う。
いつかは興味を失われ、会えなくなる日が来るのが怖かった。
世界の街々で会うたび、私は彼ともっと一緒にいられたらと願うようになっていた。
でも、期待してしまえば、思い通りにならなかったとき、きっと今よりつらくなる。
……今のこの瞬間があるだけで十分って思わなくちゃ。
私は自分に何度も、そう言い聞かせた。