ただいまは戦闘開始のゴング

ROUND 3


 ローテーブルで冷たい麦茶を差し出しながら、私はトドメの右ストレートを放つ。

「ごちそうさま。……ねえ、そういえば今日のシャツ、首の後ろに少しだけファンデーションみたいな色がついてたんだけど。落ちるかしらね?」

 もちろん、そんなものはついていない。カマかけ。ただのブラフ。
 満腹で頭の回らない彼なら、血の気を引かせて墓穴を掘るはずだった。

 ――けれど。

 彼は麦茶のグラスを受け取る指先をピタリと止め、ゆっくりと私を見上げた。動揺を押し殺した瞳の奥に、ふっと奇妙な光が宿る。

「……あ、それ。今日の夕方、取引先のビルのエレベーターでさ」

「エレベーター?」

「急停止の点検ボタンが誤作動して、ガクンって揺れたんだよ。そのとき、隣にいた女性がよろけてぶつかってきてさ。慌てて支えたんだけど、そのときついたのかも」

 淀みがない。あまりに滑らかな嘘。
 女が匂いの変化にどれほど敏感か、この男はまるで分かっていない。
 あまりにも都合のいい出来事か、あるいは半分だけ真実を混ぜた即興のストーリー。

 だが、彼のパンチはそれだけでは終わらなかった。彼はふっと表情を緩め、どこか困ったような、ひどく懐かしい笑顔を私に向けたのだ。

「でも、よかったよ」

「……何が?」

「そのとき相手の人が『すみません!』って顔を真っ赤にして謝ってきたんだけどさ。そのあと俺の肩口をくんくん嗅いで、『すごく上品でいい香りの柔軟剤ですね』って言ったんだ」

 彼はグラスを口元に運び、一口飲んでから、至極真っ直ぐに私の目を見て微笑んだ。

「だから言ってやったよ。『うちの妻、こういうセンスが抜群なんだよ。俺にはもったいないくらいだろ』って。――そしたら相手、何も言えなくなっちゃってさ。お前の選んでくれた匂いのおかげで、鼻が高かったよ」

 ドクン、と胸の奥が跳ねた。
 喉の奥が微かに熱くなる。

 浮気相手かもしれない女の前で、私の存在を盾にして牽制したとでも言いたいの?
 それとも、「お前の仕掛けたマーキングの意図なんて、全部とっくに分かってるよ」という無言のサイン?
 妻への感謝と惚気という分厚いグローブで、私の放った拳を完璧に包み込み、そのまま私の顎を跳ね上げてみせた。

 その返し、やるわね……。ちょっとガードを下げちゃったじゃないの。

 ただ怯えて縮こまるだけの子犬だと思っていたのに。窮地に立たされて、土壇場でこんな鋭いカウンターを打ち込んでくるなんて。
 悔しいはずなのに、ゾクゾクするような高揚感が背筋を駆け上がる。長年連れ添った男の、見たこともないふてぶてしさと色気。

 私はふっと口元を緩め、唇に人差し指をあてた。

「ふうん……。満更でもなさそうな顔して話すじゃない」

「え? そんなことないよ、ただ事実を――」

「いいわよ、もう。……早くお風呂入ってらっしゃい」
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