深海のカフェ冬銀河〜破滅ではなくマスターに堕ちてゆく〜
そのモンブランも、あと一口で終わってしまう。コーヒーも、あと少し。

私は、今、この時間を失いたくなくて。

ダークグリーンのソファーに深く身を沈めて、目を閉じた。

マスターが小説のページを捲る音がするだけの静かな世界。

その世界に浸っていると、なにかを少しずつ思い出してきた。

「マスター、私も大好きな小説があるんです。今は、作品のタイトルが、ぼんやりとしか思い出せないけれど」 

「そう。そうやって、現実から離れてもいいんです。リアルで現実と向き合いすぎているのですから。小説の中は、とても安全な避難場所。最も安全なあなたの心の居場所です」

ぼんやりと思い返してくる。私が大好きな小説は、カフェが舞台だった。

「あなたは、まだ引き返せます。大丈夫。だから、もう、海に飛び込もう、なんて思わないで。そんな時は、小説の中へ飛び込んで」

「小説の中でなら、またマスターと逢えますか?」

「ええ。僕たちは、小説の中で何度も逢えますよ。あなたが生きてさえいれば、何度でも逢える」

「私、⋯生きます」 

「あなたが波に攫われ(さらわれ)そうになったら、僕があなたを拐い(さらい)ますから」

人間の底知れない醜さ儚さ、弱さを誰よりも見つめてしまった私の瞳をマスターの黒くて藍色を秘めた瞳が見つめている。
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