深海のカフェ冬銀河〜破滅ではなくマスターに堕ちてゆく〜

木製の棚には小説や古書が静かに語りかけるように三十冊ほど並んでいる。

その棚の上から蔓を垂らしたアイビーと、影絵のように壁に立体化したモンステラ。観葉植物に心が安らぐ。そう、この空間では、観葉植物も育つのだ。

奥にあるガラスケースの中には、モンブランだけが美しく並んでいる。

私が好きな黄金色のモンブラン。少しぽってりとした丸みのあるノスタルジックな趣き。

現実の喧騒から逸脱された幻想のようなカフェ。

そう言えば、私の髪もワンピースも濡れてない。深海のような水の中を堕ちてきたのに水滴すら落ちていない。

不思議な感覚に浸っていると、カウンターの奥から、声が響いた。

「いらっしゃいませ」

低くて、だけど、心地よい、私の鼓膜に住み着いてしまいそうなほど素敵な声。その声の持ち主はこのカフェのマスターだった。

一瞬、ぼんやりと曖昧に見えたシルエット。よく見ると儚げで繊細で、端正な顔立ちの男性だった。

優しくてアンニュイで綺麗な二重まぶた。それに反して瞳の色はミステリアスで。闇夜のような黒い色の奥に宿した藍色。

鼻筋が綺麗に通っていて、顔全体にバランスの良い端正な立体感を生み出している。

唇は、シャープで、知的な印象。

マスターの名前と年齢は曖昧なままでいい。詩的な小説のように、一行の美しさに身を委ねたいから。私も曖昧なままでいい。曖昧な方が心地よかった。

だから、この時の私は、最後にマスターの名前を聞きたくなるなんて思いもしなかった。

だけど、もう、確実に、マスターの声と、その風貌に堕ちていた。 
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